欧州と日本の「応援」は何が違うのか?EURO2016のフランスで考えたこと

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1ヶ月間にわたって開催されていたEURO2016が幕を閉じた。

出場国が24チームに拡大したことでレベルの低下を心配する声もあったが、ウェールズやアイスランドといった小国の旋風に世界中が沸き、EUROに新たな楽しみが加わった。決勝戦のドラマチックな結末も含め、大成功だったと言えるのではないだろうか。

幸運なことに、私はそんなEURO2016を現場で味わう機会に恵まれた。

フランスで数試合を観戦し、欧州各国のサポーターと交流。世界屈指の規模を誇る国際大会を肌で味わったのだ。

私は、サッカーの持つ文化的な側面が大好きだ。

そのためサッカーチームのファン事情については人一倍勉強してきたつもりだ。それだけに、「本場」と言われるヨーロッパのファンがどれだけ大きな声を出し、どのような雰囲気を醸し出すのかが楽しみでしょうがなかった。

そして実際に欧州のファンがつくり上げるムードに強く胸を打たれ、日本との違いについても考えさせられた。

そこで今回は、「応援」というものについてフランスで感じたことをまとめてみることにしたい。

はじめに断っておくが、私自身は応援に「正しい」も「間違い」も存在しないと思っている。

サッカーは娯楽である。選手や監督は生活やキャリアが懸かっているが、それを享受するファンはそれぞれのスタンスで楽しみたいように楽しめばいいはずだ。それについて説教たらしく何かを主張したりするつもりはない。

しかし、スタジアムの雰囲気作りが選手のパフォーマンスに与える影響は少なくない。

もしもそうしたムード作りに手を焼いているサポーターズグループがあるのであれば、そのヒントになりそうなことが欧州のファンに触れて分かった気がするのだ。

サッカーを始めて22年、欧州サッカーにどっぷり浸って14年になるが、今回が私にとって初めての渡欧だった。

すでに記した通り、欧州のファンがつくり上げるムードやその声量はこれまで感じたことのない類のものだった。

もちろんEUROということもあり、ヨーロッパだけでなく世界各国から様々なファンが集まっている。訪れた街にはそれぞれのサポーターが集結しており、一括りにして話すのは危険だ。

しかしそれでも、彼らの歌声は思わず身震いしてしまうほどのものだった。こうした際によく「地鳴りのような」という表現が使われるが、まさに言い得て妙であると感じた。

こちらはトゥールズの街中で遭遇したスウェーデンサポーターの集団。

彼らは試合前日にもかかわらず、パブリックビューイング会場に集い自分たちの歌を大声で口ずさんでいた。それも、見知らぬ同胞たちとである。

誰かがラッパを吹けばそれに呼応し"Sverige!"のチャントが始まり、その輪はどんどん広がり歌声は大きくなっていく。

特別な盛り上げ役がいるわけではないのだが、サポーター同士が“共鳴”し合い、試合前日でありながら迫力あるムードを作り出していた。

開催国であるフランスのサポーターの声量も流石だった。

特に圧巻だったのは試合前の国歌斉唱だ。

スタッド・ヴェロドロームで行われたアルバニア戦のキックオフ前、スタジアムDJからアナウンスがあると、5万人はいたと思われるサポーターが一斉に「ラ・マルセイエース」を熱唱。その圧倒的な迫力に、最初はブーイングをしていたアルバニアのファンも静かにこれを見守るしかなかった。

あの瞬間、間違いなくスタジアムは一つになり、フランスの選手たちを高揚させた。逆にアルバニアの選手たちは大きなプレッシャーを感じたはずだ。

私はフランスに対して特別思い入れがあるわけではないが、その歌声を耳にし不覚にも涙が溢れてきた。

万人が本気で歌うとこれだけ情熱的なムードになるのだと、心底興奮もした。この時の感動はしばらく忘れることができない。

今挙げたのはあくまで一例にすぎないが、現地にいる各国のサポーターからは日本では感じたことのない迫力や威圧感を感じたのだ。

では、一体何がそうさせているのだろうか?

海外のファンを見ていて何よりも感じたのは、彼らは「ただ歌いたいから歌っていた」ということだ。

もちろん彼らにもチームのことを思う気持ちはあるはずだ。

しかしそれ以上に、彼らは誰かと歌ったり声を出したりすることが何よりも楽しいと思っているからこそそうしているように見えた。

そして、それが結果的に極上のムードを演出し選手を高揚させているというわけだ。欧州や南米ではチャントが自然発生すると言うが、そうなるのも頷ける。

これはクラブワールドカップで来日したモンテレイやリーベル・プレートのサポーターを見ていても思ったことだ。

彼らは仲間と歌うのが何よりも楽しそうだった。

そうでなければ、入場前に大声で歌いながらスタジアムを一周したりはしない。道頓堀や代々木公園をジャックしたりもしない(もちろん人に迷惑をかけるのは言語道断である)。

一方で、日本人は応援というものを「選手やチームのためにするもの」と捉えている節があるように感じる。

応援とは選手たちへの“メッセージ”であり、なぜ応援するかというとそれが選手のためになると信じているからだ。だからこそ苦しい時に励まし、良い時にはさらなる後押しを惜しまない。チャントや応援歌の歌詞を見ていても、そういった言葉が並ぶ印象だ。

楽しいと思っているからこそ外国人はあれだけの声を出し、迫力あるムードを作り出すことができる。一方で、日本人にとっては「応援=選手たちのためのもの」であり、だからこそ声量や持続性に限界があるのではないだろうか。

Jリーグの中には、どのようにしてバックススタンドやメインスタンドのファンに声を出してもらうかに悩み、スタジアムの雰囲気作りを日々改善しようとしているコアサポーターもいると聞く。重要なことだ。

もちろん、声の大きさにはフィジカル的な問題も関係しているだろう。

また“和”や“空気”といったものを重んじる日本人が、いきなりバックスタンドで歌うようになるとは思えない。欧州のファンがあれだけ大きな声で歌えるのは、個人主義的な価値観とも決して無関係ではないはずだ。

では、海外のファンに学ぶべきものは何だろうか。

そうした時に、楽しいと思えるチャントや応援のスタイルを用意してあげることは一つの解であるように思う。

上述した通り、日本人には「応援=楽しむもの」という意識が希薄であり、どうしても「選手たちのために」という観念が強い。だからこそスタジアムが一体になって声援を送るというケースがなかなか生まれにくいのである。

一方、EURO2016の舞台で目の当たりにした欧州のサポーターたちは、ただ自分たちが歌いたいから歌っていた。これが彼らの強みであり、日本の応援スタイルとは大きく異なる部分だ。

「楽しい」と思えることの動機は、人の行動を想像以上に掻き立てる。また、人は没頭することで驚異的なパフォーマンスを発揮する。誰かに言われたり強制されたりするとやらないことでも、それが楽しかったり自分のためになったりすると人はやるのだ。

そうしたことを念頭に置き、応援のあり方を考えるのはきわめて重要なのではないだろうか。

応援となると人はまずそのメッセージやリズムを考えがちだ。結果的には選手に届けるものなので、そこに情熱を込めるのは分かる。

しかし、応援を作り出すのはあくまでスタジアムにいる観客である。

であるならば、それはそうした人たちが歌ってみたくなる、あるいはつい口ずさんでみたくなるようなものでなくてはならない。

「楽しい」と感じるものだけが正解ではない。「簡単で歌いやすい」というのも非常に重要な要素だろう。実際に、それを狙って作られたと思うチャントもJクラブの中には存在している。

スタジアムの雰囲気作りを考える上で、その応援が「構造的に動員を呼びやすいものになっているか」というアーキテクチャ的な視点に立つことは非常に重要であるはずだ。