『無実 (ハヤカワ・ミステリ文庫 コ 11-2)』ジョン・コラピント 早川書房

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『無実』はいい邦題で、原題を"Undone"という。「結び目をほどく」「服を脱がせる」「人を破滅させる」という意味のある動詞undoの過去分詞で、形容詞としても使われる。「結び目がほどけた」「服が脱がされた」「破滅させられた」という意味の1つ1つが小説を読んでいると次々に浮かび上がってくるではないか。英語には疎いもので「un-do」をつい「やっていない」と解したくなってしまうのだけど(そして痴漢冤罪に関する映画『それでもボクはやってない』という題名が頭をよぎる)、そうではなくて過去の何かを取り消す、打ち消すという意味なのですね。

 動詞としてundoが使われた場合の有名な成句がWhat's done cannot be undone.「覆水盆に返らず」「零れたミルクを嘆いても仕方ない」「吐いた唾は呑めんぞ」----最後のはちょっと違うか。ここでもやはり「元通りにする」の意味で使われているのである。ジョン・コラビント『無実』(ハヤカワ・ミステリ文庫)は、人生の過ちを悔いて元通りに直そうとした男が地獄を見る小説だ。

 ミステリー作家のジャスパー・ウルリクソンは難病である閉じ込め症候群を患っている妻・ポーリーンと、幼い娘・マディを愛する、ごく真っ当な男性だ。そんな彼にも、ポーリーンと出会う以前に行きずりの相手と関係を持ったことが一度だけあった。ホリーという名の女性だ。ある日彼の元に公的機関からの通知状が送られてくる。そのホリーが産んだ娘が、ジャスパーに対して親権を求める訴えを起こしているというのである。たった一度の過ちとはいえ、女性に子供を産ませておいてそれを放置していた罪深さを、ジャスパーは深く後悔し、自分の娘として引き取ることを決意する。そしてついに対面の日がやってきた。17歳の美しい少女、クロエ・デワイトに「パパ」と呼びかけられた瞬間、ジャスパーの中に変化が起きる。

 狡猾なことに作者は、序章において上に書いたような筋書きの裏をすべて見せてしまっている。実はクロエはジャスパーの子供ではない。彼女は死んだ母親のホリーから、確かな証拠となる事実を打ち明けられていたのだ。知っていながら、嘘を言い立ててウルリクソン家に潜り込もうとしているのである。もちろんそれは17歳の頭で考えた計画ではなかった。

 糸を引いているのはクロエの恋人で、元弁護士のラッセル・デゾレット(デズ)という男だ。デズは思春期の少女にしか性的関心を抱けない男で、そのために弁護士の仕事も、教職も(クロエとは彼女の担任をしているときに知り合ったのだ)失ってしまった。起死回生の手段としてジャスパーを陥れることを思いついたのである。つまりundoだ。

 デゾレットは自分のことをペドフィリアだとは思っていない。彼が執着するのは15歳から18歳までの女性だからである。作中ではエフェボフィリア(Ephebophilia)という用語で説明されているこの性的嗜好が、作内では重要な意味を持つのである。そのため、若干読者を選ぶ性質のある小説だともいえる。神話的なプロットを扱っており、人間関係の中には倫理観を揺さぶられるような要素も入ってくる。男性社会が築き上げた性倫理の欺瞞が暴かれるという側面もあるため、身に覚えがないのに不安な気持ちになる読者も出てくるはずだ。主人公のウルリクソンが現代版シャーロック・ホームズ譚のような生真面目な探偵小説の書き手として設定されているのがまた皮肉で、そういう人物が不安定な立場に追いやられる小説なのである。

 男性が告発される小説として興味深いが、もちろんそれだけではない。デズ=クロエ組の策謀がいかに破られていくか(いかないか)の犯罪小説でもあるわけで、では何が対抗手段として設けられるのか、という点に作品の成否がかかってくる。それはかなり早めに読者にだけ明かされる。ジャスパーが知りえないところに手がかりがあるために読者がもどかしさを感じる、というのが本書におけるサスペンスの源泉になっているのである。オーストラリア出身の某作家による傑作などを連想しながら私は読んだ。一見単純な構成だが、手数が多く、複数のプランが盛り込まれている。これは文句なしの力作だ。

 作者のジョン・コラビントはデビュー作の『著者略歴』(ハヤカワ・ミステリ文庫)も邦訳されている。これまた非常に癖のある小説で、当時は話題になった。本書の場合も性倫理に関する部分が本国で論議を呼んだという。人騒がせな作者なのである。

 本書を翻訳したのは名手・横山啓明だ。残念なことに、本書が世に出た後の2016年6月30日に病のためにこの世を去った。氏は闘病生活を送りながら、最後の最後まで巧みな、そして品位のある訳文を紡ぎ続けた。そのことに畏怖の念を感じる。どうぞ安らかにお眠りください。

(杉江松恋)