10日、新華社通信は、日本で中国語を教えた経験を持つ人物が日本の生徒との交流についてつづったコラムを掲載した。写真は教室。

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2016年7月10日、新華社通信は、日本で中国語を教えた経験を持つ人物が日本の生徒との交流についてつづったコラムを掲載した。

10年前、私は自分の父親と同じ世代の日本人の中国語教師となった。彼らは私を「先生」と呼んでくれたが、年齢に加え各分野の専門家である彼らの先生が務まるのか不安だった。

クラスの生徒らは皆日本の国家資格である「技術士」を持つ人たちで、各分野で専門家として活躍してきた。豊富な知識を持つ彼らだが、授業中はまじめで積極的に発言していた。

中でも、背の高い鳥飼さんはクラスのムードメーカーだった。皆飲み物としてお茶やコーヒーを持参していたが、彼だけいつもコーラを飲んでいた。私が冗談で「中国では若者が好んでコーラを飲む。さすがクラスの最年少ですね」と話しかけると、彼は笑顔を見せ中国語で「数年前がんを患い1カ月間ほど自分で物を食べられない状態が続いた。その時の夢がコーラを飲むことだった」と理由を語ってくれた。

最後の授業の後、鳥飼さんはお別れ会をセッティングしてくれ、皆と別れた後も彼は駅まで送ってくれた。ホームで彼は手を振り、中国語で「先生、必ず中国に会いに行きますね」と別れの言葉をかけてくれた。

私は帰国後も彼らと連絡を取り、特に鳥飼さんのメールは一番多く、趣味の射撃や皆の現状など近況を書きつづっていた。その後鳥飼さんのメールは減ってしまい、他の人から「鳥飼さんは入院したまま帰ってくることはできなかった」との連絡をもらった。

知らせを受けた後、私はある夢を見た。それは、今まで中国に来たことのない鳥飼さんを連れ、中国の大学を見学している場面だった。私がかつて中国語を教えた生徒らは今、中国の技術者と交流し、各種のイベントに参加している。彼らは戦後の日本の高度成長を支えた専門家で、まじめで妥協せず、初心を貫く姿勢を持って第2の人生を歩み続けている。(翻訳・編集/内山)