■クルム伊達公子インタビュー(2)

2016年、今年もウインブルドンでは数々の熱戦が繰り広げられた。日本の錦織圭や土居美咲も健闘したが、ベスト16止まりに終わった。20年前のあの夏、伊達公子は当時、女王として君臨していたシュテフィ・グラフ(ドイツ)と準決勝で対決。いまも語り継がれる2日越しの激闘となった。

―― "有明の奇跡"と語り継がれるフェドカップの3時間25分の死闘の2ヵ月後、2日にわたるウインブルドン準決勝がありました。あの日から20年、今も伊達さん、あのままサスペンデッドにならず、試合が続いていたら? と同じ質問をされ続けていませんか?

「96年ウインブルドン準決勝。そうですね。20年も経ちますが、今も(勝利する)可能性は高かったと感じています。

 あの日は朝から雨でした。試合がないかもしれないという感じもあって、のんびり構えていました。ロッカールームで寝たり、状況をチェックしたりという過ごし方をしていました。空を見上げたりもしましたけど、妙なイライラもなかったんです。もう雨も止まないし、試合をやる確率は低いだろうという情報もありました。

 しかし雨が止み、もうひとつの準決勝もスピーディに終わって、急に夜7時半ぐらいから、まだ試合ができる......という見通しになりました。冷静に考えれば、試合を始めても長びけば、日没になって順延になるということも想定できたかもしれない。ただ、夏のヨーロッパは7時、8時でもかなり明るいですからね。実際"日没"と言われた9時ごろでも、あの段階で、ああいう決定になるとは思ってもみませんでした」

―― 第1セットはグラフが6−2で先制、第2セットは伊達さんが6−2と取り返したとき、試合は翌日に持ち越されることが告げられました。

「第1セットは、あっという間にグラフに取られてしまったという印象でしたが、第2セット、自分がリードしたあたりから、グラフがあせっているのがわかりました」

―― それはどういう点からですか?

「彼女はふだんから動きは早いのですが、あせってくると、さらに動きが早くなっていくんです。勝負を急ぎ出していました。

 そして、彼女はなんとか(流れを)止めたい。そのうちのひとつの選択肢として、日没を理由にして主審に『何時まで試合をするのか?』とアピールしたのだと思います。私が第2セット第8ゲームを取って、1セットオールとなったところでした」

―― ずっと気になっていたのですが、その夜は眠れましたか?

「特に寝られなかった印象はないですね。試合は終わらなかったので、記者会見はなかったですし、当然シャワーを浴びて、食事、マッサージを受けて、何とか睡眠を確保しようとしましたね。

 翌日の試合開始は11時でしたけど、直前まで寝ているわけにはいかないし、練習して試合に備えましたけど......6―3でグラフ、やっぱりダメでした。前日あのまま私のペースで試合が続行していたら......という思いがないわけではなかったですけど。

 あの時代には衛星放送も今のように充実してなかったせいもありますが、NHKの総合テレビが夜7時のニュースを飛ばして、テレビで生中継をやってくれたことは、今思うと信じがたいですね。それだけのニュースだったんだと......」

―― 20年経っても「あのとき試合が続行されていれば、ウインブルドンのセンターコートで伊達さんがグラフに勝利していた」と思う人の数が今も多いのは、テレビの影響が幻影となっているのかもしれませんが、ご自身であの日のことで、今も忘れられない原風景のようなものはありますか?

「強いていえば、日没順延となったときコート内を見渡した、あの明るさですね」

―― テレビに映し出された光は自然のものとは違うのでしょうが、テニスのできない暗さではなかったということですよね?

「テニスにはさまざまなところに心理戦や駆け引きがあります。まあ、日没もそのひとつだったということでしょうね」

―― もし、ですけど。伊達さんが猛アピールすることも考えられましたよね。どこが見えないの? 明るいじゃないの? 試合続行可能です......と。

「それはそれで、リスキーなことになったでしょうから」

―― それにしても、90年代の女子テニス選手たちはとびきりの気の強さと闘争心を持っていたように思いますが、いかがですか?

「そう思いますね。私も相当なものでしたが、私なんか、ヒヨッコ程度のかわいいもんでしたよ(笑) みんな自分がナンバー1になるためなら、人を蹴落とすぐらい何でもないという雰囲気が漂っていました。

 グラフなんて、試合直前ぎりぎりに来て、試合が終わるとシャワーも浴びずに帰りましたからね。あの頃のトップ選手はガードが固くて、自分というものを外に出さなかった。互いに語り合うなんてことはなく、自分というものを隠す意識が強かったですね。世界には気の強い人は山ほどいると感じていましたね」

―― 例えば?

「96年のアトランタ五輪でアランチャ・サンチェス(スペイン)と対戦しました。猛暑での長い試合でした。私も彼女もお互いにフラフラで、足の痙攣(けいれん)も始まっていました。彼女も同じでした。

 結局、私はファイナルセット8−6で負けたんです。その後、偶然にもロッカールームで会ったので『足が痙攣して(互いに)しんどかったね』と声をかけると、『別になんともない、痙攣なんてしてない』と素知らぬ顔で返されました。ラテン系で、どちらかといえばオープンな性格の彼女ですら、そんな調子ですからね」

―― 90年代と今では、何か変化を感じますか?

「決定的に違いがあると思うのは、電子通信機器ですかね。あの頃はパソコンも携帯電話もなかったので、皆とつながって情報交換ができなかった。ブログで自らを発信することもなかったですから。

 一人ひとり、特にトップ選手は自分の殻の中に閉じこもっているのが当たり前でした。海外に出てしまうと、日本とのつながりを持つのも難しかったです。今の選手はフェイスブックやツイッターなどで、自分をアピールするのも上手です。スポーツにエージェントが関わるのも、当時の日本では抵抗がありましたからね。今の時代で、目も合わせず、挨拶も交わさないのはシャラポワぐらいですから(笑)」

―― 孤高でしたか?

「そうですね。自分の器や若さもあって、好きだったテニスの練習も楽しくなくなり、勝っても嬉しくないし、勝つのも当然だという期待も強くて、ランキングは上がっていきましたし、試合は勝ちたいけど......一方で、勝ちたくないなぁみたいな自己矛盾もあって」

―― 勝てば試合が続いて、日本に帰れなくなるのがつらいということですか?

「アスリートにとって"強い"イメージは絶対不可欠ですけど、苦しかったですね。スケジュールが3日空くと、日本に帰っていましたから」

(つづく)

【profile】
クルム伊達公子(くるむ だて・きみこ)
1970年9月28日、京都府生まれ。両親に連れられて、6歳でテニスを始める。テニスの名門・園田学園を卒業と同時に、プロに転向。WTAツアーで7勝(シングルス、当時)、世界ランク最高4位、全豪、ウインブルドンベスト4進出など輝かしい記録を残すも、26歳(世界ランク8位)で引退する。その後は他競技を楽しみつつ、子供向けのテニス教室など、普及活動に力を入れていたが、2008年、37歳で現役復帰を宣言、2009年にはWTAツアーを制し、歴代2位の年長優勝記録を持つ。現在も現役続行中。所属はエステティックTBC。

長田渚左●文 text by Osada Nagisa