■短期連載〜消えたハリマヤシューズを探して(1)

 老舗の足袋(たび)メーカーがランニングシューズの開発に挑む、池井戸潤の新刊小説『陸王』が話題となっている。『陸王』は現代が舞台の企業小説だが、実は約100年前、小説さながらに、足袋職人がマラソン足袋を開発し、やがてスポーツシューズメーカーへと成長を遂げた実話があったことをご存じだろうか。

 1912年(明治45年)、ストックホルムオリンピック。近代国家を目指す日本が初めて代表選手を送り込んだ記念すべき国際大会で、マラソン競技のスタート地点に立ったのが金栗四三(かなぐり しそう)だった。

 日本マラソン界の祖とも言われる金栗の足には、「ハリマヤ」の足袋があった。そこに至るまでには、金栗とともに試行錯誤を重ねてマラソン用の足袋を開発したひとりの足袋職人がいた。ハリマヤ足袋店店主、黒坂辛作(くろさか しんさく)。以来、黒坂のハリマヤ足袋を履いたランナーは、次々と日本マラソン史に金字塔を打ち立てていく。

 ハリマヤ足袋は時代とともにハリマヤシューズへと形を変え、その系譜を継ぐモデルは、戦後になっても多くのアスリートに愛された。機能性を追求するあまりデザイン性に乏しく、ファッション的な人気があったとは言えないが、部活で使用した思い出など今なお懐かしむ声も聞く。そのハリマヤシューズがなぜ消えてしまったのか、いまだに謎が多い。

 日本マラソン界の黎明期を支えたハリマヤ。本当にあった『陸王』伝説を求めて、1990年代に忽然と姿を消したハリマヤシューズの足跡をたどった。

■路地裏にひっそりたたずむ不思議な石碑■

 まだ5月だというのに真夏日を記録した日の午後、ハリマヤシューズの起源を訪ねて、東京メトロ茗荷谷駅から春日通りを大塚方面へと歩き出した。通りの右手には筑波大学東京キャンパス、左手にはお茶の水女子大学がある。この通りを逆にたどれば、中央大学、さらに先には東京大学があり、一帯は日本でも有数の文教地区として知られている。

 春日通りと不忍通りが交差する付近を目指して、ゆるやかな坂道をハンカチで汗をぬぐいながら上る。平成の時代が始まって間もない頃、日本がバブル景気に沸くなか、忽然とこの世から姿を消したハリマヤシューズの原点、かつてハリマヤ足袋店があった場所がそのあたりのはずだった。

 歩きながら、ここに至るまでを思い返してみる。30年以上も前のスポーツ用品業界誌で、廃業する直前の本社の所在地は確認できた。しかし、そこは雑居ビルの一室を事務所にしていたにすぎず、実際にハリマヤはどこで創業し、どのように発展し、どうして幕を閉じたのか、その多くは謎に包まれていた。

 スポーツ用品業界の古老や老舗スポーツ店の店主、当時ライバルだったシューズメーカーの古参社員にも訊ねたが、ハリマヤについての確たる話を得ることはできなかった。わかったことといえば、日本が参加した初めてのオリンピックで、金栗四三がハリマヤの足袋を履いてマラソンに出場したという事実だけだ。金栗四三と聞いてもピンとこないかもしれないが、グリコのマークのモデルになった人物だと言えば、たいていの人が驚きの声とともに理解できるだろう。もう100年以上も前の話だ。

 情報収集に行き詰まりを感じていたとき、偶然にもハリマヤの2代目社長の名前を「大塚仲町町会」の歴代町会長のなかに見つけた。現在の地名に「大塚仲町」は存在しない。文京区役所に問い合わせ、その町会のエリアを特定できたのが数日前のことだった。

 蒸し暑さにあえぎながら、春日通りの坂を上りきった先にいよいよ大きな交差点が見えてきた。その付近一帯がかつての「大塚仲町」だ。

 照りつける太陽を避けて、交差点の手前にある角を曲がり、日陰に逃げ込んだときだった。ある建物の壁面に黒い御影石の石碑がはめこまれているのに気づいた。熱気を吐き出すエアコンの室外機に隠れるようにあったその石碑に、なにやら文字が見える。顔を近づけて文字をひとつひとつ目で追う。鼓動が高まり、背中に冷たい汗がつたうのを感じた。

 そこには「金栗足袋発祥之地 黒坂辛作」と刻まれていたのだ。

 金栗足袋とはハリマヤ足袋のことだろう。ひっそりと置かれたこの石碑に、日本マラソン史の源流を捜し当てたかのような興奮を覚えた。ハリマヤシューズの伝説は、日本マラソンの祖といわれる金栗四三と、金栗を支えた足袋職人・黒坂辛作の物語でもある。ふたりの邂逅(かいこう)がなければ、ハリマヤシューズはこの世に生まれなかったのだから。

 埋もれていたハリマヤシューズの歴史をひもとくには、明治時代にまで遡らなければならない。石碑の前に佇みながら、100年前のこの地に思いを馳せた。

■姫路からきた足袋職人と、韋駄天の師範学生■

 1903年(明治36年)、兵庫県の姫路から上京した黒坂辛作は、明治政府が近代国家建設に向けて教育に力を注ぎ、多くの官立学校や私立学校が創立されたこの大塚の一角に、小さな足袋店を構える。まだ21歳のときだった。

 辛作は遠くふるさとの姫路、つまり播磨への郷愁の想いから、屋号をハリマヤにしたのだった。やがて店の前に上野広小路へと通ずる東京市電の「大塚仲町」停留所ができたこともあり、商売は大いに繁盛した。

 辛作は座敷で使う和装の足袋を製造していたが、店の裏手には東京高等師範学校があり、春と秋に行なわれる校内長距離走の時期ともなると、足袋を買い求める学生たちで賑わった。当時は運動用の外履きがなく、足袋を代用したのだった。東京高等師範学校(東京高師)は官立の教員養成機関で、のちの東京教育大学、現在の筑波大学の前身である。

 18歳の金栗四三が熊本から上京し、東京高師に入学したのは1910年(明治43年)のことだった。金栗は恒例行事の校内長距離走において持ち前の持久力で好成績を挙げ、翌年、ストックホルムオリンピックのマラソン代表選考会に出場することになった。

 近代国家を目指す日本が、国際的なスポーツイベントに初めて参加する。その日本代表を決める選考会は25マイル走、約40kmのレースだ。当時で言う十里の距離を、全国から選ばれた12名の選手で競った。

 11月の冷たい雨が降りしきるなか、金栗はハリマヤで買った黒足袋を履いて、さっそうと走り出す。小石まじりの道を駈けるとすぐに足袋の底がはがれ、足にまとわりついて走りづらい。やむなく金栗は足袋を脱ぎ捨てて裸足になった。道はぬかるみ、滑って思うように足を前に運ぶことができなかったが、それは金栗ばかりではなかった。選手は皆、足先の冷えと痛みに耐え、踵(かかと)に切り傷を負いながら走っていたのだ。

 レースは、やがて金栗がひとり抜け出した。このとき金栗は2時間32分45秒で走り、当時の世界記録を27分も短縮して優勝している。新聞がこぞって金栗の快挙を報じ、国民はそこに欧米列強に肩を並べる日本の姿を投影した。

 当時の計測の不正確さもあっただろう。しかし「金栗が出れば優勝だ」と、誰もがこのニュースに熱狂し、金栗は日本が送り込む初めてのオリンピック代表選手に選ばれた。

 金栗の鍛錬は日に20kmはくだらなかったという。練習用の足袋は3日も使えば底に穴があく。補修するために布を重ねて自分で縫ったが、慣れぬ針仕事は思うように進まない。

 金栗はハリマヤ足袋店に辛作を訪ねて頼んだ。

「なんとか工夫してくれんか。履きよくて長持ちするやつを」

 そもそも辛作の足袋は、走るために作ったものではない。10歳も年の離れた学生の面倒な依頼を、しかし足袋職人の辛作はむげに断ることはしなかった。それどころか、まったく商売にならない、走るための足袋づくりに熱中した。そして、金栗とともに試行錯誤をした末、つま先と踵の裏底に丈夫な厚布を二重三重に縫い付けて耐久性を増した足袋を仕立てて、ストックホルムに持たせた。

 いやが上にも膨らむ日本国民の期待。しかし、国家の威信をかけて出場したオリンピックで、日の丸を背負った20歳の金栗は、思いもかけぬ事態を招いてしまうのだった。

(つづく)

石井孝●文 text by Takashi Ishii