景観認知症:連載「21世紀の民俗学」(5)

写真拡大

都市は変化を続ける。その速度は速くなっていく一方で、建て替えの前に何があったのか明確な記憶をもつことは難しい。そう、まるで認知症のように、景観にまつわる記憶がおぼつかないのだ。都市生活者でもある民俗学者・畑中章宏が、絶え間なき更新のなかでアイデンティティを「焼き付ける」ために考えたこととは。

「景観認知症:連載「21世紀の民俗学」(5)」の写真・リンク付きの記事はこちら
そこに存在したはず建物

いまの町に移り住んで21年半になる。正確な年数を憶えていられるのは、引っ越しの翌朝、テレビをつけたとたん、神戸の三宮が燃えている映像を見たからだ。阪神・淡路大震災の前日からずっと隅田川べりの町に住み続けているのである。

この町で変わったことといえば、10年以上前に超高層マンションが建ったことぐらいで、大変貌を遂げたということはない。それでも小さな区画ごとに、建物が建て替わることは少なくない。

つい先日のこと、これまでに何千回となく通ってきた道のかわたらが、更地になっていた。(何千回というのは365×21×2÷yぐらいの概算である)。ところがわたしは、その更地にどんな建物があったのかまったく思い出せないのだ。

たしかにそこには建物が建っていた。コンビニや飲食店が入居していたビルならともかく、その建物を利用したことがないのだろう。だから20年以上、視野に入っていたにもかかわらず、何階建てで、なにを営んでいたのか、さっぱり憶えていないのである。

“景観認知症”とでもいうのか、これはけっこう悲しいことである。自分が身近な風景に愛着をもっていなかったこと、視覚について鈍かったこと、あるいは記憶力の心もとなさへの落胆などが入り交じった、もやもやした悲しみが湧いてきた。

しかしこのご時世、大変便利なツールがあった。Googleストリートビューである。プライヴァシーの問題やアートの文脈で、さまざまな議論や話題を提供するサーヴィスだが、こんなときにはとても役に立つ。早速住所検索すると、当該の建物が写し出され。その瞬間、わたしは声にならない声を挙げたことと思う。「そうだ、そうだ、憶えてるよ」。それは2階建ての古い建物で、看板には「〇〇自動車工業 中古車販売 民間車検工場」と書かれていた。クルマに乗らないわたしはたしかに利用したことのない建物である。しかしなかなか趣のあるファサードで、気にとめてこなかったことを、改めて深く恥じた。

_MG_0009

新しくなる都市の「なつかしさ」

いまから20年ほど前、1990年代半ばの東京では、いたるところに更地が見られた。バブル崩壊の余韻がくすぶり続け、地上げで買い取られた土地や、再開発が予定されていた場所に建物が建てられず、そこらじゅうが更地のまま放置されていたのである

行政史的には鈴木俊一都知事の4期目にあたり、彼の都政下では、東京国際フォーラム、東京都現代美術館、江戸東京博物館、そして東京都庁舎が建設された。建築家の磯崎新がいうところの「粗大ゴミ」である。さらに1996年の3月には世界都市博覧会の開催が予定されていた。広々とした更地に深い穴が掘られ、巨大な建物が次々と建てられるいっぽうで、一等地なのにいつまでも駐車場のままだといった空間がやたらと見られた。

こうした都市の荒地に着目したのは写真家たちだった。その代表的な人物は荒木経惟である。もともと東京を重要なモチーフにする荒木の被写体に、80年代後半から、更地や建設工事現場の情景が目立つようになる。それがこの時代の東京の「裸体」だったからである。荒木が1997年にオーストリア・ウィーンのセセッション(分離派館)で開催した「TOKYO COMEDY」には、縛られた女性と東京の虚ろな空間の対比が多い。ほかには佐内正史が更地や駐車場を頻繁に撮影していた。彼はネガカラープリントの作家だが、写真集『生きている』(1997年)をみると、当時は空地が、極めてフォトジェニックだったことがわかる。

現在であればさしずめ、国立競技場の更地などはシンボリックなものだろう。いまならまだ、新しい競技場が建つ前の景観をみることができるはずである。そしていつか、旧国立競技場でも新国立競技場でもなく、一過性の更地に、「なつかしさ」を覚える感情をもつことがあるかもしれない。

日本各地の山々の多くが、近世のある時期に「禿山」だったことは、最近では知れわたってきた。いわゆる里山を構成する集落の背後の山は、燃料や家屋の設え、橋梁をはじめとする土木資材として伐採されていった。「足踏み式水車」の出現によって耕地の開発が進み、人口増加が起こったことは前回述べたが、そのしわ寄せが、集落近くの景観に如実に表われたのである。

武蔵野の雑木林景観が、自然主義文学者たちによって「発見」されたものであることは、文芸批評家たちの手により、何十年も前に明らかにされてきた。しかし里山景観についていえば、「なつかしい」と感じるような過去さえ、日本人は共有していなかったのである。もし日本の近代を批判し、近世世界をなつかしむのであれば、「禿山」にこそなつかしさをおぼえ、民衆のアイデンティティをそこに見出すべきかもしれない。

_MG_0041

失われた場所を眼に焼きつけること

故郷の景観が失われることに恐れを抱き、村の景観をあますところなく、写真に収めようとした女性がいる。

1977年、岐阜県の徳山村で、20年前にもちあがったダムの建設計画が、具体化に向け動き出した。そこに住む60歳の女性、増山たづ子は、カメラを手に村の撮影をはじめた。カメラは75年に発売され、ストロボ内蔵式大衆機として一世を風靡した「ピッカリコニカ(コニカC35EF)」である。年金のほとんどをつぎこんだ増山の記録行為は、87年の廃村後も続けられ、彼女が88歳で亡くなるまで継続された。桜の季節に、ショベルカーが民家を解体しているシーンは、なかでも印象的なものである。こうして残されたネガは約10万カット、サービス版カラープリントを貼ったアルバムは600冊にもおよんだ。2013年に開催された増山の写真展には、「すべて写真になる日まで」というタイトルが付けられた。

いま太平洋沿岸の津波被災地では、いつまた襲ってくるかもしれない津波防災、津波減災のため防潮堤が建ち、高台移転が進展しつつある。津波を受け土地は、地盤沈下による冠水対策のため、膨大な量の土でかつての街を埋めて、かさ上げがはかられている。その途上の街をいくと、車道の両側に数メートル、ところによって10メートル以上の高い土壁ができている。やがてその土の上に建物が建ちはじめるはずだけれども、それは更地のうえにビルができるのとは、似て非なるものである。

『毎日新聞デジタル』が今年の4月12日、次のような記事を配信している。かさ上げ工事が進む宮城県名取市閖上(ゆりあげ)で、70歳近い男性が、手づくりの祭壇を両手でなで、固く目を閉じ、おえつを漏らしていた。男性は津波で娘夫婦を失い、妻はその悲しみからうつ病を患った。2013年の1月からは、毎月命日に夫婦で娘の家の跡地を訪れていた。病を再発した妻は訪問が途絶えたが、次女が寂しいだろうと、男性は1人で訪れた。「5年経ったんだから忘れろ、なんて言ってほしくない」。かさ上げ工事がこのまま進むと、娘夫婦との思い出の場所が土の下に埋まってしまう──。

かさ上げにより造成された街は、津波以前と全く同じ区画で復旧することはできないだろう。住所表記も変更せざるをえないにちがいない。現地復興にはかさ上げはやむをえないことかもしれない。けれども、土の下に埋まったかつての街は、二度と歩くことがかなわないため、思い出すにも困難がともなうだろう。

景観が失われる前に眼に焼きつけておくこと、あるいは写真に残しておくことは重要な行為だろう。また変化の途上の、過渡期の風景は貴重だと思う。些細な経験やなにほどでもない光景は、やはり記録ではなく、記憶としかいいようのないなにかである。

_MG_0065