瓜売の瓜に隠された意味を勘ぐってみた「真田丸」26話

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NHK 大河ドラマ「真田丸」(作:三谷幸喜/毎週日曜 総合テレビ午後8時 BSプレミアム 午後6時)
7月3日放送 第26回「瓜売」 演出:小林大児


栄華を誇った関白秀吉(小日向文世)だったが、長男・鶴松の死によって関白の座を手放し、太閤になることを考える。
天正19年12月、関白になった秀次(新納慎也)には側室がいっぱいで、娘もいた(たか〈岸井ゆきの〉)。そのことにちょっとビビるきり(長澤まさみ)。父親・内記(中原丈雄)に側室のことを相談すると、父は乗り気だが・・・。
きりが迷っている間に、信繁(堺雅人)は、大谷吉継(片岡愛之助)の娘で、後に正室となる春(松岡茉優)に出会ってしまう。
花を抱え走ってくる春。キラキラした恋愛映画のような音楽がかかって盛り上げる出会いが、名護屋城に来た茶々(竹内結子)と信繁が語り合っているところという皮肉めいたシナリオ。その時、茶々も第2子を身ごもっている。その前に、57歳の秀吉と茶々にまだ男女関係がありそうな感じを匂わせているのも丁寧だ。

「私はどこに向かっているのでしょうか」と信繁に訊ねる春。この台詞は、信繁の正室となる「それはもう少し先の話」であることを示しているのか。でも、たかの「それはもう少し先の話」についてはこの回、さすがに触れていなかった。
ラブストーリー的なくすぐりも入ってはいるものの、それは現代のラブストーリーとは違う。恋心と家と家の事情、お世継ぎ問題等々、男女関係が個人的な問題でなく、必ず家や戦と大いに関係しているのがこの時代。きりと秀次の関係は、秀吉に男の子が生まれた場合、自分に男の子がいると疎まれると戦々恐々となることを描かせるための、精密なボルトになっている。
日の本一になった秀吉のことを、誰もが恐れ、腫れ物に触るように扱う。

それを表すのは「やつし比べ」だ。沈みがちな気分を紛らわすためにパーッと盛り上げようと、秀吉が思いついた余興・仮装大会。だが、それは茶番でしかなく、皆、秀吉を一番にしようと努力する。
このイベントをやけに明るくばかばかしく描けば描くほど、退廃感が色濃くなっていく。すべてが終わった後に秀吉は、「兵の士気が下がります」と片桐且元(小林隆)に言われて、「もうとっくに士気など下がっておるわ」と吐き捨てる。
頂点を極めた者の虚無感。もう他に戦う相手がいないからこそ秀吉の心は海を隔てた明国に向かうしかない。
「人は仕事がないとろくなことを考えぬ。」「泰平をひっくり返そうと考えるものはいなくなる。」と言い、
自分に歯向かう者の気持ちを別のターゲットに向けさせたはいいが、自分の天下も間もなく終わりそうという予感を持て余す小日向文世の表情がいい。懐妊を信繁に知らせた時、足踏みして喜びを表す動きや、秀吉の独特の歩き方など、小日向は自由自在に演技している。
その流れから、とり(草笛光子)の死へ──。
真田一家が集まり、寝ているとりを取り囲む。ひとつふたつコント盛り込みながら、とりは、信幸(大泉洋)と信繁に大事なことを遺言のように語りきかせる。

この泰平の世に何をしたらいいのか迷う兄弟に、「人は誰も定めをもって生まれてくる」「おのが定めに気づくか気づかぬか」とかっこいいけど漠然としたことを言った後、「怠るな」で締めるとり。
まとめちゃうと面白くない気もするが、今をせいいっぱい生きるしかないということだろう。ベストを尽くすことーー「真田丸」はそれを体現していると思う。こういう部分を説明台詞で済ませてしまう作家もいるが、三谷幸喜はそこに至るまでに様々なエピソードを積み重ねる。改めて26回の最初から振り返ってみるとーー。
まず、名護屋城にて、加藤清正(新井浩文)との宴と舅・本多忠勝(藤岡弘、)と家康(内野聖陽)との宴の狭間で悩む信幸を、別に婿ではないけど、婿が会社の上司と舅との板ばさみに合うみたいな感じで描いて笑わせながら、そこで清正に、信幸と信繁の名前が、兄なのに「源三郎」、弟なのに「源次郎」であることに疑問を抱かせ、改めて真田兄弟の名前の宿命をおさらいさせる。これがラストに利いてくる仕掛け。ほら、三谷幸喜は怠ってない。
そして、やつし比べで、昌幸の生きる哲学が語られる。
「父上は立派です。どんな時も楽しそうだ」と信繁に言われるように、瓜売の芸を実にみごとにやる昌幸。「これも戦じゃ。真田ここにあると、居並ぶ大名たちに見せつけてやるのよ」と張り切る。ほら、真田昌幸も怠ってない。
ところが、残念なことに秀吉と演目がかぶってしまう。

信繁「まずいことにあきらかに父上のほうがお上手なのです」
昌幸「なんたることじゃ!」

ふたりは真剣だ。音楽も本気シーンにかかる曲だ。演出も怠ってない。
さりげなく秀吉を諦めさせようと練習風景を見せるが気づかない秀吉。

小日向文世が「ぶぐばぐぶぐばぐ(みぶぐばぐ)」「あ〜あ〜」と発声練習。さすがに「瓜売りが瓜売りに来て・・・」はやらない。
信繁「おのれを見失っておるようです」
昌幸「なぜわからん」 

真剣・・・。
軍議のように真面目に会議。出浦(寺島進)が物騒な性格を発揮する。たまに台詞を発する時も、ちゃんとこれまでの役割を踏襲しているから、気持ちいい。怠ってない。
結局、棄権する昌幸に、めっちゃ泣く佐助(藤井隆)。元々、瓜売の口上は佐助が上手で、それを昌幸が上手に真似ることができたもの。秀吉も上手なひとに習えばよかったのに。出雲阿国とか。でも秀吉は芸事が好きだからそんなに下手なのもおかしくないか。もしかして皆の様子を探る作戦? などと勘ぐってみる。
秀吉の瓜売と家康のあじか売りの対決では、内野のつくりもののように見事に膨らんだ太鼓腹に目が釘付け(25回の三成、利休に続く、肉体美シリーズ)。内野も怠ってない。

発表できなかった芸を、母とりに見せてリベンジかと期待させて・・・「うるさい」で一蹴されてしまう落とし方も鮮やかだ。
この真田家大集合の場面で、信繁と梅(黒木華)の娘・すえとの苦い対面も描いているし、信幸の今の妻・稲(吉田羊)と、元妻であり真田家の血筋でもある(モデルの清音院は昌幸の姪)こう(長野里美)の立場もさりげなく描いている。しつこいようだが、怠ってない。とりも天国で満足であろう。
とりが亡くなる場面にもナレーションによるフェイントがあり(遊んでいるなあ)、亡くなった後、秀頼が生まれたというナレーションで締める。からっとおもしろ回と思わせて、じっとり死と生がまとわりついた、まるで外はカリッと中はジューシーなミディアムレアのステーキのようだ。死と生というと11回「祝言」が傑作だったが、「瓜売」はそこに笑いが入って、さらに豊かなものになっている。

瓜 には「瓜ふたつ」(似ている)という使い方や、「瓜の藁に茄子はならぬ」(血筋は争えないという意味)という言葉もあり、「破瓜」という言葉から性的なイメージも喚起させる。家を代々存続させていこうとする登場人物たちの思いと瓜売りの瓜が呼応しているかのようではないか。そう思うと、この回、秀次のたくさんの側室、清正の宴に集められたたくさんの女性、信繁の将来の妻がふたり(春とたか)、多くの女たち(基本的に血筋を絶やさないための存在)が登場するのも偶然ではない気がしてくる。「瓜売り」は創作でなく、実際、秀吉がやったこと。それが史実を超えてこんなにも想像をかき立てるなんて!
(木俣冬)