何かを悟ったように少しうなだれて肩を落とすと、錦織圭は相手コートまで足を運び、寂しそうな笑みを浮かべて、対戦相手のマリン・チリッチ(クロアチア)に握手を求めた。

 ウインブルドン4回戦――。それまでの3試合は、左脇腹に痛みを抱えながらも勝利を手にした錦織だが、この日は、「前の2試合とは比べものにならない」ほどの激痛が、彼に満足に動くことすら許さなかった。

「難しいのは、わかっていた......」

 勝利の可能性が限りなくゼロに近いことを予期しながらも、それでも彼は、第2セットの終盤までコートを去ろうとはしなかった。

「よく考えたら、あれで勝てるわけはないのに......」

 自分でも、理由はよくわからない。何かに取り憑かれたようにコートに立ち続けた彼は、最後はマイケル・チャン・コーチの声を聞き、棄権を受け入れることを決意した。

 そんな錦織の姿を見ながら、ファミリーボックスのチャンは、何を思ったのか?
 愛弟子のウインブルドンの戦いを、どう見ていたのだろうか?

「ケガをしたのは、とても不運でした」

 4回戦の数日後――。"ダブルス招待試合"のためウインブルドンに残っていたマイケル・チャンは、幾分和らいだ表情で言った。

「ハーレ(ウインブルドン開幕の2週間前に行なわれた前哨戦)で左脇腹を痛めましたが、数日少し休んで、かなりよくはなったんです。ただその後、また痛めてしまった。

 圭は、芝でもいいプレーをしていました。だからこそ、4回戦はタフな相手(チリッチ)でしたが、それでもトライした。トライした結果、試合中によくなるというのは、テニスではあることなんです。ただ今回に関しては、それが無理なのは明白でした」

 錦織に勝機がないことを悟ったチャンは、試合中に幾度か棄権をうながすサインを送った。そうして最終的には、錦織に直接、声をかけている。彼はどんな気持ちで、いかなる言葉をかけたのか?

「圭には、『もう十分にやった。もうやめよう』と言いました。このままプレーを続けても、チリッチに勝てるレベルにないことは明らかでしたから。この後の長い夏のことを考えると、ケガを悪化させることが一番心配だったんです。最後は、圭も納得していました。

 ただ試合の前には、僕は圭に、棄権を勧めることはしませんでした。彼にチャンスを与えたかったし、1〜3回戦も痛みのなかでプレーを続けて、結果的に勝つことができました。ですが4回戦に関しては、それは起きないと感じたので、棄権するように言ったんです」

 痛みがありながらも試合に出たのは、ケガの状態をかんがみての、チームとしての判断だった。それは錦織本人の「折れたりするような場所ではないので、多少悪くなっても、そんなに大事にはならないとドクターにも言われていた」という言葉とも合致する。

 現在、「チーム圭」には、"スーパーコーチ"のチャンをはじめ、ツアーコーチのダンテ・ボッティーニ、身体のケアを担当する中尾公一、そして今年4月から新たに"ストレングス&コンディショニング・スペシャリスト"であるロビー・オオハシも加わった。

 彼らはそれぞれ役割が異なれば、錦織と過ごす時間にも差異がある。この面々から成るチームの機能性や完成度は、チャンの目にはどう映っているのか?

「僕らは常に全員が、情報を共有するようにしています。ナカオは圭のことを長く知っているし、すべての大会に帯同している。ロビーはいくつかの大会に帯同し、そのなかでフィジカルのレベルを上げる戦略を立てています。実際に圭のフィジカルは向上し、2014年以降、毎年よくなっています。もちろん、まだパーフェクトではないけれど、それは改善の余地があるということ。

 トレーニングブロック(年に数回定期的に設けるトレーニング期)では、僕の元トレーナーであるケン・マツダも加わっています。すべてのスタッフがハイレベルであり、仕事に全力で打ちこんでいる。今のテニス界では、テニスの技術と同じくらいフィジカルの重要性が上がっているので、これからも強化は続けていきます」

 このようにフィジカル強化のスタッフが充実していく一方で、コーチのチャンが果たす役割は、これまでと多少変化しているという。かつては細かい技術指導が中心だったが、「今は戦術面のアドバイスが主な仕事」。現在、チャンとボッティーニのふたりのコーチは、それぞれどのような役目を担っているのだろう?

「僕に関していえば、家族のこともあるので、フルにツアー帯同はできません。でも、ダンテがすべての大会に行き、すべての試合を見ている。僕が圭を直接見るのはトレーニングブロックと、4つのグランドスラム、そしていくつかのツアー大会になります。

 ダンテと僕は、非常にうまくいっていますよ。ダンテとは毎日、相談しています。僕は帯同できないときも圭の試合をテレビで見て、圭とダンテの両方と、試合前や後に戦術面の話し合いを持っています」

 さらにチャンは、昨今の"レジェンドコーチ・ブーム"の理由を次のように分析した。

「最近は多くの選手たちが、元トップ選手をコーチとして探しています。それは選手たちが、『小さいけれど決定的な何か』を求めているからでしょう。経験豊富な元選手とツアーを回ることは、それだけでメリットがあると思います。グランドスラムで戦ったり、決勝戦のプレッシャーを経験したことのない人には、それを克服する術(すべ)を教えるのは難しいでしょう。だからこそ多くの選手が、"少しの違いを与えてくれる存在"を求めている。技術、メンタル、経験......それらすべてにおいて、元トップ選手は助けになると思います」

 今の錦織には、チャンの経験や戦術眼に加え、確たる知識と技術を持つ、フィジカル面のスペシャリストたちがついている。錦織自身もグランドスラムの決勝戦やツアー優勝を経験し、その時々に必要なこともわかっている。

 しかしそんな彼らにとっても、オリンピックが控える今年の夏は、4年に一度の希少なケースだ。長く厳しい夏を乗り越えるために、もっとも重要なこととは何だろうか?

「まずは、ケガを治すことが最優先です」

 チャンが即答する。

「カナダ・オープン、リオ・オリンピック、シンシナティ・マスターズと大きな大会が続き、そして1週間あけてUSオープン。これは、とてもタフなスケジュールです。実際、オリンピックの年は常に厳しいんですよ。だからこそ、ケガには何より気をつけなくてはいけません。

 圭はハードコートをもっとも得意としているので、チャンスは当然、大きくなる。ニューヨーク(全米オープン会場)によい状態で入ることを、最優先に考えなくてはいけません」

 ウインブルドン4回戦での途中棄権――。それは残念な結末ではあるが、試合後の錦織の顔には、持てる力を「出し尽くした」がゆえの達成感も浮かんでいた。

 かくして長い欧州シリーズは終わり、昨年苦しい時期を過ごした夏が、より厳しさを増してやってくる。昨年の経験を踏まえたうえで、錦織たちは、どう後半戦を戦い抜くのか――。「チーム圭」の成熟度が、厳しく問われる季節でもある。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki