記者会見に臨んだ浅野が、満面の笑みでお馴染みのジャガーポーズを披露。写真:中野香代(紫熊倶楽部)

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 アウクスブルクとの移籍交渉は進んでいた。海外移籍の交渉事は並大抵ではいかないが、一つひとつ階段を登ろうとしていたその時に、驚きの連絡が足立修強化部長(広島)のもとへ届いた。
 
「アーセナルが、浅野拓磨に正式オファーを出す」

 焼き鳥で一杯やっていた足立部長の酔いは、一気に醒めた。
 アーセナルは、本気だった。スタッフが来日し、広島側と交渉を進めたいという意向を示していた。しかも、このオファーはアーセン・ベンゲル監督の強い意志が働いていたという。
 
「来日したスタッフに与えられた監督からのミッションはただひとつ、浅野拓磨と契約すること」

 足立部長は後に、そう聞かされた。労働ビザ獲得のための「最近2年間の国際Aマッチに75%出場」という条件についても、「ベンゲル監督が特例処置を獲得すべく自ら動く」という強い意志がクラブに伝えられた。
 
「クラブ史上最高額」(織田秀和社長)の移籍金も含め、「ジャガーに惚れ込んでいる」と言っていいメッセージの数々は圧倒的。あとは、意志の問題だけだった。
 
 このビッグクラブからのオファーが伝えられた時、さすがに21歳の若者は驚きを隠せなかった。
 
「マジか、という感じでした。僕自身、世界ではまだまだアピールできていないと思っていたから」
 
 海外のサッカー事情には決して詳しくない浅野にしても、さすがにアーセナルがどういうクラブなのかは、知っていた。チリ代表のFWアレクシス・サンチェスは、今まで浅野がゴールのイメージを創るために映像を見ていた選手。思いは高まった。
 
 だが一方で、考えるところもあった。
「確かに、海外でのプレーには挑戦したい。ただ、どこのチームに行くかを選択する前に、広島でもっとやらないといけないのでは、とも思ったんです。僕はまだまだ、広島のためになにもできていない。もっと広島のために頑張るべきではないか、と」
 
 確かに彼は昨年、優勝に貢献したとはいえ、8得点はすべて途中出場から。チャンピオンシップでのゴールも同様だった。今季は繰り返された負傷もあって第1ステージは2得点に止まっている。日本代表でもプレー機会は少なく、ゴールもPKの1点だけ。
「私も、まだ早過ぎると思っていた。いずれは欧州で活躍できる人材だが、広島でもまだレギュラーを確保していないし、まだやることがある、と。でも、アーセナルもアウクスブルクも、認識は違っていた。代表とか成績ではなく、タクマのポテンシャルを高く評価している、と」(足立部長)
 
 国際的な実績に乏しい選手が移籍した例として、宮市亮がいる。だが彼は高校時代にアーセナルのトレーニングに参加し、そこでベンゲルに評価された。
 
 だが、浅野は欧州クラブの練習に参加したことはない。実績はJリーグとU-23におけるアジアレベルだけ。それでも、アーセナルは本気のオファーを届けた。ジェイミー・ヴァーディ(レスター)の獲得に失敗した彼らが、世界的には全く無名の日本人に白羽を当てる。常識では考えられない。
 
 だが、それほどアーセナルは浅野を必要としている。その証拠が、稲本潤一の時のような「期限付き」ではなく、巨額の移籍金を支払った上で完全移籍という契約内容だ。労働ビザ獲得に全力を尽くす姿勢だ。
 
「タクマであればプレミアでなにかをつかみそうな雰囲気を感じています。素直で実直で、昭和のボクサーのようなハングリー精神を持つ彼ならば。だから、私は『行くな』とは言わなかった。ただ『経験を積む』なんて時間は、日本代表にはない。行くなら勝負だ。悩むくらいなら広島に残れ、と」(足立部長)
 
 浅野は自分の気持ちと向き合った。その上で、素直に「行きたい」と思った。世界最高峰のリーグに、アーセナルに挑戦したい、と。
 
「僕にとって広島は特別な街になった。だからこそ、旧市民球場跡地にサッカースタジアムができることをひとりの選手として願っていますし、(移籍金の使い道は)クラブにお任せしていますが、力になりたいと思っています。そしていつの日か広島に戻ってきて、新しいスタジアムで広島のあたたかいサポーターとともに戦いたい」
 
 記者会見で語った浅野の言葉。泣かせる。だからこそ、広島とサポーターは寂しさを押し殺して、若者を送り出す。やれると信じて。実績と栄光に包まれて、戻ってきてくれると信じて。
 
取材・文:中野和也(紫熊倶楽部編集長)