天津市河西区に住む田捷元さんは、「年を取ったが、体は元気。日本が謝罪する日まで生きていたいと思っている」と話した。

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天津市河西区に住む田捷元さん(90)は、古い椅子に座り、腰をまっすぐに伸ばして、「年を取ったが、体は元気。日本が謝罪する日まで生きていたいと思っている」と話した。横のテーブルに置かれた戸籍謄本には「1945年10月13日、日本の北海道より天津市に移転」と記載されていた。 城市快報が報じた。

1945年初め、当時19歳だった田さんは、同市のある紡績工場で働いていた。ある夜、機械が故障し、工場を仕切っていた日本人は誰かがわざと壊したと疑った。田さんと他の2人の従業員は、小劉庄にあった日本軍の水上憲兵隊に連行され、10時間も拷問を受けた。10日後、田さんは塘沽強制収容所に送られ、それから日本へ向かう汽船に乗せられた。日本に着くと、北海道の炭鉱で1日14時間以上も強制労働を強いられた。中国に戻れたのは、日本が降伏し終戦してからだった。

帰国後、田さんは天津の第四棉織工場で退職するまで働いた。退職後、田さんは、一緒に住む長男の田増順さんに、若い時に日本で強制労働を強いられ、苦痛を受けた時のことをしばしば話題にした。

最近、戦時中に日本に強制連行されて過酷な労働を強いられたとして、中国人元労働者らが損害賠償を求めている問題で、三菱マテリアル(旧三菱鉱業)が元労働者に、「深甚なる謝罪の意」を表明し、賠償金を払うことで和解した。そのニュースを聞いた田さんは、増順さんに頼んで筆者と連絡を取り、三菱の労働組合に関係する組織と連絡を取りたいと伝えた。「父は毎日、日本に対する賠償請求は進展しているかと聞いてくる。生きているうちに、公正な決着をつけて欲しいのだと思う」と増順さん。

そこで、第2次大戦中国労働者三菱被害者聯誼聯席会の戴秉信秘書長と連絡を取り、田さんが働かされていたのは北海道夕張市の真谷地炭鉱であることを確認した。北海道炭礦汽船株式会社が経営していた炭鉱で、三菱グループの所属企業ではなかった。

戴秘書長は、「今回の賠償に田さんは含まれておらずとても残念。しかし、中国の民間の日本に対する賠償請求はこれからも続く。田さんのような元労働者が、必ず公平な決着を見ることができるよう努力する」と話すと、田さんは、「中国人労働者に強制労働を強いた日本の全ての企業が真剣に歴史と向き合い、心からの謝罪と賠償をすることを願う。日本政府も相応の責任を負わなければならない」と語った。(提供/人民網日本語版・編集KN)