毒島ゆり子のせきらら日記 Blu-ray BOX

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『毒島ゆり子のせきらら日記』が終わった。

美登里(渡辺大知)は、「ゆりちゃんが泣くとこ、初めて見た」と言ったが、わたしも同じことを思った。

女優・前田敦子を「品定め」。『毒島ゆり子のせきらら日記』の面白さから見えてきた、新・可能性

前田敦子が泣くのを初めて見た。

いや、現実には、映画やドラマや総選挙(一度、武道館に行ったこともある)などで、前田の涙を目撃しているはずなのだが、そんな記憶はすべて消え去り(事実、いまこうして書いていても、映像作品で彼女が泣いている姿がどうしても思い出せない)、いま、初めてこの女優の泣き顔にふれた気がしている。

だが、それこそが、演じ手が、観る者にもたらす確かな表現というものなのではないか。

このドラマの成果は、すべてそこにあったと思う。

ある場面では、毒島ゆり子が怒るところを初めて見た、と感じた。

ある場面では、前田敦子の笑顔を初めて見た、と感じた。

ある場面では、毒島ゆり子のまなざしを初めて見た、と感じた。

ある場面では、前田敦子の声を初めて聴いた、と感じた。

それが、毒島なのか前田なのか、その境界線が不可視のものとなり、そんなことよりも、目の前にいるひとりの女性が、自分が知らなかった、初めてのなにかを見せていることに、ただ感じ入っていた。

演技であれ、芸術であれ、ほんものの表現は、わたしたちの感性を更新する。初めて「それ」に出逢った感慨をもたらす。既知の情報からもたらされる思い込みを抹消し、「次」の次元に連れてゆく。

ちょうど4年前の6月、SNSにわたしは次のように記した。

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意思的であること。前田敦子の魅力はそこにあると思う。

ポジティブシンキングとか負けず嫌いとかそういうことではない。自分は自分という開き直りでもない。自分というものをわかりやすく翻訳しないという意思。既存のキャラに自分を当てはめてスライドさせて、それを巧妙に演じることが空気を読むということだと思うが、それをもっとも求められる芸能界という職場でそれをしないという意思。

もはや天然という領域ではない。無意識で乗り越えられる限界を、彼女は随分前に突破している。

以前、演技者としての彼女について、天才でもなければ秀才でもない、と書いたことがある。

天才はときとして、やりすぎてしまうことがある。そして、やってはいけないことまでやってしまう。どんな監督もそれを制御することはできない。秀才は努力型である。努力を追求するものは、どこかで努力が実ることを願っている。結果、ほめられることを求める、物欲しげな芝居に陥ることにもなる。

前田敦子の演技の素晴らしさは、やってはいけないことをけっしてやらないことにあり、観る側に対して、こう見てほしいという目配せがいっさいないことにある。

彼女は天才の限界と秀才の限界を、いつの間にか突破している。

『毒島ゆり子のせきらら日記』の前田敦子には、あのとき書いたことがもはや通用しない。そのことに爽やかな敗北感がある。

いまの彼女には、自身の努力を、正しく導く力がある。

「わかりやすさ」や「巧妙さ」に傾斜はしていないが、「届ける」ことに、こころも、からだも、くだいている。そのためなら、「やりすぎる」なんてことは、どこにもない。そんな意思がある。「こう見てほしい」とは考えないが、「どう見られてもかまわない」というタフネスが、明るくひなたぼっこしている。相変わらず「物欲しげ」ではないが、けもの道を切り開いていった結果、「なにかを得る」ことに少しも躊躇がない。

彼女はかつて、わたしの問いにこう答えた。

「慣れないで、上手くなりたい」

演技することにも、現場にいることにも、馴れ合わないで、上手くなりたい、と前田敦子は口にした。

上手くなる、ということは、ときに、「こなれる」ことに陥るが、そうではないかたちで向上したい、という意味だと、わたしは受けとっている。

いま、まさしく、彼女は、そんなふうにして、カメラの前に立っている。

2011年という年が明けたころ、『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』という映画のクランクインの現場にいたわたしは、前田敦子の背後に「映画的後光」が射しているいるさまを目撃し、薬師丸ひろ子(奇しくも前田とは二度共演している)の再来を確信した。

以来、前田敦子の女優としての価値をさまざまなところで書き、また話してもきたが、ほとんど賛同は得られなかった。それどころか、巷では「前田は演技が下手」が定評になっていることも知った。

この試論では、なぜ、そのようなことが語られているのかについても思考するつもりだったが、ドラマの純度に瞳を奪われ、そこはおそろかになってしまった。おそらく、これまでの前田敦子の演技には「共感度」が欠けていた(4年前、記したように、それこそが非凡だったわけだが)のだろう。

だが、そんなことはもうどうでもいい。『毒島ゆり子のせきらら日記』には、かつてないほど「共感度」の高い芝居があふれている。

前田敦子には、前田敦子にしか、輝かせることができないものがある。確かにある。「それ」が、ここまで明瞭に、全方向から、ひとつの作品のなかで立ち現れたことはなかった。

もし「あなたは、なにができるの?」と訊かれたら、彼女は「わたしはこれができます」と、『毒島ゆり子のせきらら日記』を見せればいい。

前田敦子は、前田敦子を卒業したのだと思う。

「これまで」は、もう必要ない。「これから」があるだけだ。

これから、何度でも、「初めての前田敦子」が、わたしたちの前に出現するだろう。

(アルバム『Selfish(TYPE-C)』を聴きながら)

『毒島ゆり子のせきらら日記』Blu-ray&DVD-BOX 発売

発売日:10月26日(水)

【特典映像】
・クランクアップ集
・NG集
・黒猫チェルシー with チャラン・ポ・ランタン もも「抱きしめさせて〜THE HEAD WINDS ver.〜」スペシャル ミュージックビデオ
・SPOT集
◆本編一部をディレクターズカット版にて収録。
※収録内容は変更となる場合がございます。