ウインブルドン――。

 それはグランドスラムでも最古の歴史を誇り、白のウェア着用義務に代表される厳格さで格式を保ち、世界最高の知名度を確固とする大会である。錦織圭も、「やっぱり最初に名前を知ったのは、ウインブルドンだと思います」と、その威光に幼少期から触れてきたことを否定はしなかった。

 しかし、現実的な戦績としてウインブルドンは、彼をもっとも苦しめてきた大会である。他のグランドスラムではすべてベスト8以上に勝ち進んでいる錦織だが、ウインブルドンは昨年のベスト16が最高成績。大会そのものの位置づけも、「うーん......、やっぱり結果が出てないところなので......」と、うなってしまう対象だ。

 錦織がウインブルドンを苦手とする最大の理由は、コートの種類(サーフェス)が"芝"であることに尽きるだろう。現在のツアーテニスにおける主なサーフェスは、芝、クレー(土)、ハードの3種。これらのサーフェスはボールの跳ね方から、求められるフットワークまで大きく異なり、そのため選手によって得手・不得手も変わってくる。

 現役選手のなかで、芝でもっとも高い勝率を残しているのは、ウインブルドン7回の優勝を誇るロジャー・フェデラー(スイス)だ。その数字は「.870」。逆に彼がもっとも苦手とするのはクレーで、勝率は「.759」。クレーでも十分に強いのだが、やはり芝との差は歴然としている。また、3年前に英国人男子選手として77年ぶりにウインブルドンを制したアンディ・マリーも、芝でもっとも勝っている選手。クレーでは「.705」、ハードでは「.776」の勝率が、芝では「.848」まで上昇している。

 対して、クレーで「.914」という驚異の勝率を誇るラファエル・ナダル(スペイン)は、芝では「.773」まで数字が落ちる。このように、一部の例外はあるものの、クレーと芝の得手・不得手は、"トレードオフ"の関係になりやすい。

 そして錦織圭であるが、彼のサーフェス別勝率は、クレーが「.718」、ハードは「.688」、そして芝は「.581」。もったいぶって言うまでもなく、数字的には、芝がもっとも苦手なサーフェスだ。

 バウンド後にボールが滑るように低く伸びる芝のコートでは、高速サーブや爆発力ある強打の持ち主、あるいはスライスを多用する選手が活躍しやすい。錦織のように、リターンとラリー戦で主導権を握りたい選手にとっては、リズムが掴みにくいコートである。また足もとが滑るため、足運びにも慣れや適性が求められる。錦織も芝の難しさとして、「サーブがいい選手が相手だと、なかなか簡単に返せない」こと、そして「自分の持ち味であるフットワークが生かせない」ことを挙げていた。

 また、最近の錦織の発言で興味深かったのは、「芝に入ると、自然と敵がなんか強く見える」というものである。

「クレーで元気のなかった選手も、サーブとストロークの爆発力があれば、急に強くなれるので」というのが、その理由だ。

 ちなみに、この錦織の発言に対応するような言葉を残したのは、ビッグサーバーのミロシュ・ラオニッチ(カナダ)である。ウインブルドン3度の優勝者であるジョン・マッケンローを芝シーズン限定のコーチに雇ったラオニッチは、マッケンローから、「どうすれば相手にプレッシャーをかけられるか」を主に学んでいると言った。芝を得意とする選手とは、相手に"自分を大きく見せる術"を知る選手なのかもしれない。

 さて、ここまでネガティブな要素にばかり触れることになってしまったが、芝との相性は心の持ちよう次第であったり、プレーを多少適応させることで変わる部分もあるはずだ。たとえば、今では錦織がもっとも高い勝率を残すクレーは、数年前まで、「どうプレーすればよいかわからず、苦手意識しかなかった」サーフェスであった。それがマイケル・チャン・コーチのアドバイスを受け、意識と戦い方を少し変えたことにより、瞬(またた)く間に結果を残したのである。

 あるいは、ウインブルドンと同会場で開催された4年前のロンドンオリンピックでは、錦織は攻撃的なプレーでベスト8に勝ち上がっている。このときの彼は、「思い切って腕を振り抜いていこうと思ったことが、芝とうまく合わさった」と言っており、「自身の攻撃力が芝ではより生きる」と感じていた。実は錦織のプレーの特性そのものは、芝との相性がそこまで悪いわけではないのかもしれない。

「(松岡)修造さんには、いつも『芝は合っている』と言われるんですが......」

 芝を得意とした大先輩にそう説き聞かせられていることを、錦織も苦笑いまじりで明かす。

「試合で勝っていって、いいテニスができてくれば、より好きになるかもしれません。(ウインブルドンの)歴代の優勝者を見ても、(アンドレ・)アガシや(レイトン・)ヒューイットら、自分のプレースタイルに近い選手もいるので」

 リターンを武器とした先達たちと、自らを重ねることで彼は、芝で躍進する可能性を見い出そうともしているようだった。

 また、準優勝した2014年の全米オープンに代表されるように、自らへの期待値の低さがプレッシャーなどを取り除き、好結果につながることもあるだろう。なにしろ、この2年前の全米時の錦織は、大会開幕の3週間前に足裏の"のう胞"摘出手術を受け、直前まで出場そのものを悩んでいたほどだったのだから。

 ウインブルドン――。それは多くの選手にとって憧れの大会であり、その憧憬の強さが時に、不必要な力みにつながることもあるだろう。果たして錦織も、もっとも早く名を知ったというこの大会に、過剰な想い入れを抱いているのだろうか......。

「いや、そこまでの執着心というか、憧れはなかったです」

 ふわりと笑って、錦織が言う。この軽やかさが、苦手意識を越える翼かもしれない。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki