「ル・マンには魔物が棲んでいる......」

 モータースポーツに関わる仕事に就いてから25年余り。「伝統の一戦」を語る人たちの口からこの言葉を何度も耳にし、実際、そう感じたこともあった。しかし、今年のル・マンほど、「魔物」の存在を思い知らされたレースはない。

「魔物」は静かに息をひそめて「その時」を待っていた。ラスト3分、後続のポルシェに1分30秒近い差をつけてトップを快走していたトヨタ5号車を突然の異変が襲う。

「ノーパワー、ノーパワー」とコックピットから無線で呼びかける中嶋一貴の声にトヨタのピットは凍りついた。急激にスローダウンし、ピットストレート正面で停止するトヨタTS050HYBRID。あの瞬間、ル・マンに棲む「魔物」が、歓喜の時を待っていた中嶋一貴と、トヨタGAZOOレーシングチームのすべてのスタッフの運命を一気に飲み込み、「暗転」させてしまった。

 その直前、つまり、23時間57分ごろまでトヨタは「完璧」と言ってもいいほどの素晴らしい戦いぶりを見せていた。スタート直前に降り出した豪雨のなか、セーフティカーの先導で始まった第84回ル・マン24時間レース。

 レースは序盤からトヨタ、ポルシェ、アウディの3メーカーの6台がまるで予選アタックのようなペースで競い合い、目まぐるしくトップが交代する超接近戦を見せる。

 そんななか、序盤でアウディの2台がトラブルで後退。鉄壁の体制で「大本命」と見られていたポルシェもまた、ナイトセッションに入った深夜12時前に1号車がトランスミッションのトラブルに見舞われ、ピット作業で1時間近くを失って大きく順位を落とす。

 トヨタもまた、中嶋一貴、アンソニー・デビッドソン、セバスチャン・ブエミ組の5号車がパワートレイン系のセッティングによるタイムロスや、タイヤ交換直後にバイブレーションが発生したことで予定外のピットインを強いられたものの、こちらは最小限のタイムロスに留めることに成功。

 一方、小林可夢偉、ステファン・サラザン、マイク・コンウェイ組の6号車は、最初のスティントで最速ラップを叩き出す可夢偉の貢献もあり、レース開始から5時間を経過した時点でトップを快走した。

 やがて、序盤のタイムロスを取り戻したトヨタ5号車もこのトップ争いに合流すると、レース中盤以降は5号車、6号車の2台のトヨタとポルシェの2号車(ロマン・デュマ、ニール・ジャニ、マルク・リープ組)の3台による三つ巴の展開が繰り広げられる。

 その後、トップにトヨタ5号車、2番手にポルシェ2号車、その後ろにトヨタ6号車というオーダーでレースは終盤へと突入。2位ポルシェとは「30秒」という僅差で、5号車は最後のドライバー、中嶋一貴に託されることになる。

「ポルシェの最終ドライバーはチームの中で一番速いニール・ジャニでしたし、後ろとの差はわずか30秒。結構プレッシャーがキツイなぁと思っていましたが、実際に走りだしてみると、逆にポルシェとの差がジワジワと広がり始めてきたし、あとはもう、レースが終わるまでともかく無事に、無事に......と祈り続けていました。残り11周、10周、9周......と数えてきて、4周まで数えたのは覚えているんですけど......」(中嶋)

 ところが「残り2周、チームから無線で『クルマに優しく、安全にドライブしろ』と言われたタイミングでポルシェコーナーに入って、アクセルペダルを踏んだら全然パワーがなくて」と中嶋が言うような状態に陥る。ノロノロと最終コーナーを立ちあがったTS050 HYBRIDは、ピットストレート上、トヨタチームのピットの目の前で静かにストップしてしまった。

 その後、辛うじて走り出すことに成功したものの、その間にライバルのポルシェ2号車がトップでチェッカーを受けて逆転優勝。トヨタの6号車が2位に入り、3位はアウディの8号車(ルーカス・ディグラッシ、ロイク・デュバル、オリバー・ジャービス組)という顔ぶれが表彰台を獲得した。

 勝利をほぼ手中に収めていたはずのトヨタ5号車は、チェッカーフラッグ提示から6分以内にゴールしなければならないという規定を満たせずリタイア扱いに終わった。

 マシンから降り、目を赤く腫らせた中嶋にチームスタッフが駆け寄る。残りわずか3分弱で、突然その手から滑り落ちたル・マンの勝利......。トヨタチームの誰もが目の前に起きた現実を理解できず、ある者は茫然自失し、ある者は泣いていた。

「これがレースの厳しさ、ル・マン24時間の難しさだ」と言われても、受け入れるにはあまりにも過酷な運命のイタズラに、望外の勝利や表彰台を得たポルシェやアウディのドライバー、チーム関係者も我がことのように心を痛め、深い悲しみとショックに沈むトヨタチームに次々と慰めの言葉を掛ける。

「今年のトヨタは本当に素晴らしくて手強い、優勝するに値するチームだった......。私たちの心はあなた方と共にある」

 それは、ル・マン史上稀に見る超ハイペース、超ハイレベルの接戦を戦ったライバルへの心からの敬意であり、同じモータースポーツの世界で生き、その厳しさと苦労を、そして勝利への気持ちや悔しさを分かち合う彼らの、心からの言葉だったと思う。

 昨年までル・マン通算最多の17勝を誇る王者ポルシェが、そして同じく通算13勝を挙げているアウディが、「悲願の初勝利」に向けて全力で戦い、勝者に値する素晴らしいレースを見せたトヨタに対する最大限のリスペクトを示して、その悲しみや悔しさを分かち合おうとしていた。

「最後まで無事であってほしいと、祈るような気持ちでドライブしていたけれど、まさかあのタイミングで止まるとは思っていませんでした。僕は普段からどんなに悪い事があっても、可能性がゼロでない限り、ものごとをポジティブに捉えようと思っているのですが、さすがにあの時は何もできなかった......。

 これもレースですから仕方ないんですが、実は2014年にも似たような展開があって(※2014年のル・マンでは中嶋一貴がトップを快走しながら、ゴールまで残り9時間で電気系のトラブルに遭い、そのままリタイア)。さすがに、自分が何か悪いモノを『持ってる』んじゃないかと思いそうになりますね......。

 でも、限りなく、本当に限りなくル・マン制覇というゴールには近づいているんだと考えて、前を向いて進むしかないと思っています。来年のル・マンで絶対に勝つ。それは本当に自分の目の前にあったのですから」

 つらい気持ちを必死に押し潰しながら、中嶋は笑顔で語った。

 結果的に2位表彰台を獲得した小林可夢偉たちの6号車の健闘も含めて、今年のトヨタは本当に「王者に値する戦い」を見せてくれた。これ以上ないほど高い緊張感のなか、マシンとチームとドライバーが最高のパフォーマンスを発揮し続けたその見事な戦いぶりは、ル・マン24時間の歴史のなかでも後世に語り継がれるに違いない。

 23時間57分、完璧な王者の戦いを続けた彼らに過酷な運命が待ち受けていると、誰が予想できただろう?

「ル・マンには魔物が棲んでいる......」

 その魔物のあまりにも残酷なふるまいに茫然としながら、トヨタには、そして中嶋一貴には「残り3分」で消えた夢の続きを、1年後のこの場所で見せてほしい。

川喜田研●取材・文 text by Kawakita Ken