『カメリ (河出文庫 き 6-3)』北野 勇作 河出書房新社

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 人間がいなくなった世界で、残された人造物が変わらぬ日常を営みつづけている。飛浩隆『グラン・ヴァカンス』の基本設定だが、じつは同時期に似たシチュエーションでまったく異なるテイストのSFが書かれていた。北野勇作「カメリ、リボンをもらう」である。その後ゆっくりとエピソードを積みあげ(なんと十三年がかり)、こうして一冊の本にまとまった。

 飛作品は仮想空間のリゾートが舞台でそれまで訪れていた人間が急に来なくなったのだが、『カメリ』では人間は現実の世界からテレビのなかへ引っ越してしまっている。「テレビのなかへ」とは残された人造物たちがそう思うのであって、具体的に何が起こったのかは判然としない。リアルな人体を捨てて人格をデータ化してしまったということなのか、それとも何かの原因で人間が滅んでしまって人造物にはそれが理解できないということなのか。もっとも、後続のエピソード「カメリ、ハワイ旅行を当てる」では、ナガムシ商店街の組合事務局の係員が「ヒトもときどき我々の肉体に入ってこの世界に旅行に来ます。おもに、盆と正月です」と説明するので、向こう側にヒトはいるのだろう。ただ、向こう側がどういうところなのかはやっぱりわからない。単純な仮想世界ではないらしく、「情報の落差によって発生するポテンシャルでふたつの世界の接点が破断される」「その作業にともなう危険をさらに小さくするため(略)ある収束していない確率状態を発生させる」と、ずいぶんこみいっているようだ。ちょっとグレッグ・イーガンとかテッド・チャンとかの雰囲気すらある。

 しかし、それをテクノロジカルなタームを弄したりせず、「テレビのなか」と言いきってしまうのが北野勇作のセンスの良さだ。収束していない確率状態うんぬんも、実際におこなわれる作業は商店街の福引きである。これを担っているのはヒトデナシという種族で、彼らはもともと人手を補うためにヒトによってヒトデからつくられた。ヒトデナシは個体識別されず、労働力としてさまざまな領域で使いすてられている。もっとも世界からヒトがすでにいなくなっているので、ヒトデナシが勝手に仕事をこなし消耗していくだけなのだが。そのヒトデナシの福引きに、想定外のカメリ(われらが主人公だ)が参加してハワイ旅行を当ててしまう。

 カメリは二足歩行型の模造亀(レプリカメ)で、オタマ運河の左岸にあるカフェで働いている。店のマスターはシリコンの塊の頭をした石頭(いしあたま)。カメリの同僚アンはヌートリア擬人体で、もともとは沼地用に特化した生体兵器である。店に来る客はヒトデナシたちで、彼らは食事をしたりコーヒーを飲んだりしながら店に設置されたテレビを見ている。そのテレビを通じて、人間たちの習慣を知る。アンはテレビドラマで覚えた「それってセクハラよ」の台詞が気に入っていて、それっぽいシチュエーションが起きないかと手ぐすねを引いて待っている。実際問題として、人造物しかいない世界で性差別などまったく意味がないのだが。性差別はなくとも性差はあってカメリとアンは女性で、マスターは男性だ。

 カメリは女性だがカメだし人造物なので、ほんらいは人間の女の常識(というか私たちが惰性的に自明としている女らしさ)に沿ってはいない。しかし、テレビを通じて外形的に人間文化を模倣しているヒトデナシたちは、カメリを「女の子」として扱う。いちばんはじめのエピソード「カメリ、リボンをもらう」はその経緯が描かれており、ある意味ショッキングだ。カメリが生んだ無精卵をオムレツにして皆で食べてしまう。そのお礼としてヒトデナシは赤いリボンをカメリにプレゼントするのである。

 もちろん、それをショッキングに感じるのは、こちらが人間的な規範を勝手に投影しているにすぎない。人造物には人造物の、動物には動物の調和や良識があるのだ。でも、まあ、カメリもヒトデナシも人間の文化に憧れて、それっぽくふるまおうとしているので、おあいこといえばおあいこなのだけど。カメリはエプロンをつけて「テレビで見たお手伝いさんみたいだ」と思い、それですこし嬉しくなる。ヒトの真似をすると、なぜか浮きたつような気持ちになるのだ。

 カメリは常連のヒトデナシたちにケーキを出してやろうと、螺旋街の中心部マントルの丘にある評判のケーキ屋へ向かう。買いもの籠を下げて。この買いもの籠も赤いリボンと並ぶ、カメリのトレードマークだ。しかし、丘の上のケーキ屋もリアルなケーキ屋ではないのでカメリはケーキを手に入れることはできない、それでも彼女は諦めずにケーキ屋の前の列に並ぶ。あるいはカヌレをつくるために、運河沿いの道をずっと先へ行ったところにあるニャンニャンプールのノミの市でアンティークのカヌレ型を探す。カヌレのレシピもよくわからないので、偶然手に入れたメトロの卵を使ってそれっぽいものを仕上げる。メトロとは地下水路を行き交う巨大なオタマジャクシで、後ろ足が生えた状態でカエルにならぬまま成熟する。カメリはメトロを交通手段として使っているのだが、あるとき乗り損ねて流され大きな井戸へ迷いこんでしまう。そこはメトロの産卵場所だった。卵のまわりのゼリー状の部分をカメリは自分で食べ、中心の弾力のある黒い部分をカヌレの材料にするのだ。そんなカヌレは聞いたことがないが、ヒトデナシたちは大喜びだ。

 そこにあるのは本物ではないけれど、カメリの世界はなんだかとっても懐かしい。記憶のなかにほんのりとある町のようだ。細部がくっきり鮮やかなのに全体はやわらかく曖昧な懐かしい想い出。子どものころ、住んでいた町のように思えてくる。

 それは実際の過去ではなく、失われた時間をいくら巻き戻してみてもその場所には行きつかない。私たちは古い映画や写真を眺めて切なく温かい気持ちを覚えるが、その時代に現代人が失なった思いやりや特別な親切があったわけではなく、そこに生きているひとはいまと同じように息苦しかったり潮垂れていたりするのだ。懐かしい過去は残像にすぎない。

 じつのところ、人間がいたころの世界を再建しようとしているヒトデナシは、つい過去を美化してしまう私たち自身かもしれない。ヒトデナシはさまざまな仕事をこなすようにあからじめプログラムされている。といっても機械的に動作しているのではなく、状況に応じて判断する柔軟性はあるし、カフェで雑談したりテレビを見て楽しむこともできる。ただ、大きな枠組として決められた目的から逸脱することはできない。よくよく考えると、程度の差こそあれ私たちの日常とそう変わらないではないか。たしかに人間には職業選択の自由があるし、嫌になったら仕事を辞めてしまう自由はある。でも、現実問題としてつねにその自由を行使できるわけではなく、どこかで折り合いをつけて毎日をやりすごしている。

 だけど、そんな人生に悲観することはぜんぜんないのだ。アーサー・C・クラークの『都市と星』のアルヴィン以来、SFは自由意思の問題を肯定と否定の両極で考えすぎてきた。カメリはそこをずっと柔らかく、やさしく受けとめてしまう。彼女はカフェでくつろいでいるヒトデナシも、一生懸命に仕事をしているヒトデナシも、けっきょくは決められたシナリオに沿っているのだとわかっている。しかし、そのうえで「そういうことをするように作られたからそうしているだけだとしても、どうせなら楽しそうにするほうがいい」と考える。

 いっけんおっとりみえるカメリだが、いったん決めたらはちょっとやそっとの困難ではくじけない。赤いリボンをつけて買いもの籠を手に、どこへでも行きたいところへ行く。ゆっくりであっても前へ前へ。そのしたたかな行動力は、超攻撃型のアンに「ま、そういうのが、あんたのいいところだからね」と言わしめる。機嫌よく生きれば世界はいつだってステキなのだ。

(牧眞司)