『FAKE』──それは付和雷同の国への楔:森達也、15年ぶりの新作を語る

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有名人のスキャンダルをことさら糾弾するメディア、それに喝采を送る視聴者たち。そうした最近の日本の風潮から、精鋭化するポピュリズムの危険性を感じ取ると森達也はいう。15年ぶりの新作に選んだ「佐村河内騒動」の最深部から、森はなにをすくい上げたのか。(『WIRED』VOL.23掲載のインタヴューに補稿して公開)

森達也|TATSUYA MORI
1956年広島県生まれ。ドキュメンタリー映画監督・TVディレクター・作家。テレビ番組制作会社を経てフリー。オウム真理教広報部長・荒木浩とオウム信者たちを追った『A』が紆余曲折の末98年に劇場公開。2001年の『A2』では山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。06年、「ドキュメンタリーは嘘をつく」(テレビ東京)を企画監修。主な著書に『放送禁止歌』など。

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オウム真理教信者たちを被写体としたドキュメンタリー映画『A』(97)ならびに『A2』(01)で知られる森達也。彼が15年ぶりに手がけたドキュメンタリー映画のテーマが、2014年に起きた「ゴーストライター騒動」の中心人物である“贋ベートーヴェン”こと佐村河内守であり、さらには映画のタイトルが『FAKE』だと知ったとき、無類のシネフィルであれば、おそらく『オーソン・ウェルズのフェイク』(74)との相関性を嗅ぎ取ったに違いない。

「そうらしいですね。でもその作品、実は観たことがないんです。『オーソン・ウェルズのフェイク』という映画がある、ということ自体は知っていましたが、単にそのレヴェルです。別にオーソン・ウェルズに限らず、例えばモフセン・マフマルバフやアビィ・モグラビ、クリストファー・ゲストなど、フェイクとドキュメンタリーの境界線が曖昧な手法を使う監督はほかにもたくさんいます。日本にだって松江哲明や村上賢司、白石晃士や山下敦弘などがいる。是枝裕和の『ワンダフルライフ』や『ディスタンス』も、見方によってはフェイクドキュメンタリーです。昔だって今村昌平の『人間蒸発』があります。とりたてて珍しいジャンルではありません。

でも『FAKE』は、フェイクドキュメンタリーにカテゴライズされる作品とは違います。タイトルで誤解されるのかな。このあいだ指摘されて気がついたのだけど、これまでのぼくの映画のタイトルは、『A』『A2』『311』と、アルファベットと数字しかタイトルに使っていないんです。意味性を排除したいのだろうなと、自分で分析しました。本当は『タイトルなし』にしたいけれど、さすがに無題だと興行できないので、毎回仕方なくつけています。意味なんかありません」

ネット上で散見される憶測や深読みを、まずはサラリとかわしてみせた森。彼と佐村河内守との関係は、どのように始まったのだろうか。

「佐村河内さんに初めて会ったのは、2014年8月(騒動が起こったのは同年2月)です。知り合いの編集者から、『本を書きませんか?』と依頼されたのですが、最初は断りました。そもそも騒動前には彼のことを知らなかったし、興味がありませんでした。ですが熱心に言われたので、じゃあ一回会ってみようということになり、彼の家まで行ったんです。実際会ってみると、直感的に『この人は映像だ』と思い、その場で『映画を撮りたい』と伝え、2週間後には冒頭のシーンの撮影をしていました」

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そもそも、前作『A2』から『FAKE』に至るまで、15年間もの空白が存在した背景にはどのような経緯があったのだろうか。

「理由は単純です。子どもたちが進学とか物入りの時期だったので。ドキュメンタリー映画を撮っているだけでは、学費どころか生活が成り立ちません。

映画を撮ること自体は、さほどお金はかからない、特にいまはデジタルですから。フィルム時代に比べれば、圧倒的に低予算で映画はつくれます。でもドキュメンタリー映画の場合は、大ヒットしたって観客は1〜2万人です。その入場料総額の半分が劇場にいき、配給や宣伝費用、製作スタッフにギャランティを払ったら、計算してくれればわかるけれど、ほぼなにも残らない。生活なんてできないですよ。ドキュメンタリーはそもそものパイが小さいので、たまに『若いつくり手にメッセージを』なんて求められるけれど、『一日も早くドキュメンタリー制作などやめてください。迷惑です』と言うようにしています。というわけでこの15年間は、基本、活字を書いていました。

まあほかに付け加えるならば、『A』と『A2』の2本を撮ってHP(ヒットポイント/ヘルスポイント)がゼロになってしまい、ゲージがフルになるまで思いのほか時間がかかってしまった、ということが挙げられます。こちらのほうが本当かも。ドキュメンタリーは加害性が強いので、撮った自分にだって毒が回ります」

ドキュメンタリーとは化学実験のようなもの

『FAKE』という作品の印象に大きな影響を与えているのは、実は佐村河内守の妻、香さんの存在だ。冒頭、香さんはフレームの外におり、声しか聞こえず、最初はそれが誰なのかも判然としないが、香さんは徐々にスクリーンの中で存在感を醸し出していく。

「佐村河内さんと最初に会って映画にしたいといったとき、ぼくは『奧さんも一緒に』っていったんです。でも香さん自身は嫌がった。だから冒頭のシーンでは、ぼくと佐村河内さんが向かい合い、カメラを脇に置いて香さんが写らないようにしています。でもいずれ、香さんにも入っていただくことになるだろうとは最初から想定していました。ぼく自身はこの映画を、彼ら2人の純愛を描いた映画だと思っていますから」

佐村河内と新垣隆の間には、仕事上のパートナーシップ以上の親密さがあったという噂も…。

「もしかしてBLってことですか? そういう噂を耳にしたことはあるけれど、陰謀史観以下のレヴェルだと思います。現実は常にグラデーションだけど、1年以上にわたって佐村河内さんを撮り続けた感覚としては、それはありえないです。ここでのぼくのコメントとしては、『バカじゃないの(笑)』とでも書いておいてください」

「ドキュメンタリーが描くのは、異物(キャメラ)が関与することによって変質したメタ状況なのだ。目指せということではない。必然的にそうなる。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。」

これは、森の著書『それでもドキュメンタリーは嘘をつく』からの一説だ。森にとって、カメラを構えることとはなにを意味するのだろうか?

「ドキュメンタリーの定義を辞書的にいえば、演出や脚色のないありのままで客観的な映像、みたいなことになる。ならばそれは監視カメラの映像であって、ドキュメンタリーではありません。ドキュメンタリーは表現です。作為であり主観です。客観的などありえない。では次に、ドキュメンタリーにおける演出をどう定義すればよいのか。ぼくは化学の実験のようなものだと思います。フラスコの中に被写体を入れて、下から熱したり冷やしたり、触媒を入れたり揺すってみたりといろいろな刺激を加えてみて、それによって被写体がどのように反応するかを撮るわけです。場合によってはぼくもカメラを持ってフラスコの中に入り、挑発するつもりが逆に挑発されたりする…。その相互作用を撮るのがドキュメンタリーだとぼくは思っています。そういった働きかけ、つまり干渉や加担や挑発や誘導こそが、ドキュメンタリーの演出です。ありのままの現実を客観的に撮るなどありえない。そもそも不可能です。多くのテレビドキュメンタリーは、中立や客観などの幻想に縛られてその領域をカットしてしまうけれど、それでは相互作用が描けない。それこそ本当のフェイクだと思います」

「演出や脚色のない客観的な映像」という点でいうと、ハーヴァード大学感覚民族誌学研究所が手がけたドキュメンタリー作品『リヴァイアサン』は限りなくそれに近く、ドキュメンタリー表現の新たな境地を切り拓いた作品ではないだろうか?

「『リヴァイアサン』、観てないです。(『FAKE』の配給・宣伝を手がけた)東風の配給作品だし、気にはしていたんだけどね。もちろん、生涯を通して菌類の生態の映画を撮り続けた樋口源一郎監督とか、あるいはCBSや報道特集などジャーナリスティックな要素が強いドキュメンタリーとか、いろいろあっていいと思うのですが、ぼくがつくるドキュメンタリーとは違う、ということです。テーマや撮りかたでドキュメンタリーを定義すべきではない。要するに映像表現です。それ以上でも以下でもない」

ベストセラーが世界一生まれる国・日本

森がカメラを持たなかった15年の間に、インターネットの普及もあり、メディアが発信する情報は質量ともに大きく変化した。では、情報の受け手である「大衆」の意識の変化を、森はどうみているのだろう。

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『A2 完全版』2002年の劇場公開時には諸事情によりカットされた幻のシーンをすべて加えた完全版が待望の公開。6月18日(土)〜24日(金) & 7月9日(土)〜15日(金)、いずれも連日21:00から渋谷ユーロスペースにてレイトショー。©「A」製作委員会

「メディアリテラシーについての絶望的なまでの欠落は、基本的に変わっていないと思います。もちろん、15年前よりはこの言葉を知っている人が増えたかもしれないけれど、『リテラシーを身につけて真偽を見分けましょう』的な理解では意味がない。『真偽は簡単に決められないし、そもそも真実はひとつではない』と気づかなければいけない。映像のトリックは、一応はプロであるぼくにもほとんど見分けられません。見分けることは不可能であり、真偽の境界はラインではなくて領域であると思ったほうがいい。正義の反対は別の正義。クレヨンしんちゃんのこの言葉の意味と重なります」

メディアリテラシーが取り立てて変わらない一方で、「大衆」がよりポピュリズムを待望する風潮が強まっているのではないだろうか?

「それは実感しますね。ぼくはオウム事件以降にアクセルが入ったと思っています。他者への不安と恐怖をトリガーにしながら社会の集団化が加速して、セキュリティ意識が急激に高揚した。だからこそ民族とか宗教とか国民とか同質なもの同士で連帯しながら、敵や異物を見つけたいとの気持ちが前景化する。集団は同調圧力をダイナミズムにします。その帰結として、『みんなと同じことをしないものは叩け』的なエモーションが強くなる。これを言葉にすれば不謹慎です。

集団は動くために号令を求めます。つまり強いリーダーです。それがいま世界規模で起きている。世界的には2001年のアメリカ同時多発テロ以降だけど、日本はその6年前に始まっていたとぼくは思います。そもそも日本人は同調圧力が強くて、一極集中で、付和雷同の国じゃないですか。『ベストセラーが世界一生まれやすいと国』と言われています。集団として暴走しやすい国なんです。

もちろん、集団と相性がいいからこそ、経済大国としてここまで発展できました。でも集団はリスクが大きい。主語が大きくなるから壮大な過ちを犯します。そうした属性や欠陥を知ることが大事なのだけど、最近は特に、自分たちの負の歴史から目を背けようという傾向が強いですね。『日本は素晴らしい!』とか『誇り高い国日本』とか、非常にドメスティックで危険な兆候を感じます。…まあこういうことを言うからネットでブサヨとか叩かれるのだけど、でも左翼じゃないですよ。資本論もまともに読んでいないのに」

人の不幸をメシの種にしている自覚

ところで今回、一番予期せぬものが撮れたと感じたシーンはどこだろうか?

「自分の体験で言えば、撮影時に自分が予期しない局面がたくさんある作品ほど、結果として面白いドキュメンタリーになりますね。現実に翻弄されるんです。渦中ではこれほどつらいことはないけれど、こうした要素が多ければ多いほど、豊かな作品になるとの実感をもっています。例えば『A』ならば不当逮捕のシーン、『A2』ならば右翼との交流シーンとか。そういう意味で今回は、ラストがまさしくそうですね。ぼくの作為が裏切られて、現実に圧倒されています。こうしたときに、つくづく『世界は豊かなのだ』と思います。

フジテレビの人たちが出てくるシーンは、フジがどうこうではなく、『あれは自分たちの姿なんだ』と思ってほしい。あのシーンを編集しているとき、プロデューサーの橋本佳子はときおり後ろに座って、『自分を見ているようだ』とかブツブツ言っていました。もちろん、彼らはぼくでもある。それが仕事なんだから、彼らを批判する気はまったくないです。もしも会社の営業職の人を撮ったら、あんなシーンはいくらでも撮れると思う。彼らが誰かを玩具にする理由は、それによって視聴率が上がるからです。つまり選択しているのは社会です。

ただ、ぼくらメディアの仕事は、チョコレートをつくったり野菜や果物を売る仕事とは違い、誰かを傷つけたり追い詰めたりする要素がとても強い。メディアの影響力はそれほどに大きい。ルワンダの虐殺やロシアとウクライナの紛争も、メディアが大きな役割を果たしています。それを忘れてはいけない。ときには思い出すべきです。報道も含めて『人の不幸をメシの種にしているんだ』ということを、もっと胸に刻むべきだと思います。つまり負い目。うしろめたさ。決して胸を張れる仕事じゃない。後ろめたさをもたなければ、人を傷つけるばかりです。でも重要な仕事です。加害性が強いからこそ、ときには多くの人を救うことができる。世論を動かすことができる。

だから、佐村河内騒動があったとき、家でワイドショーを見ながら怒っていた人とか、最近でいえばショーンKとかベッキーについて、『こんなヤツ許せない』などとネットに書き込みをするような人にこそ、ぜひ『FAKE』を観て欲しいです。…まあ、そういう人たちは、なかなか劇場まで足を運んでくれないかもしれないけれど」

『FAKE』/「聞こえているのでは?」「作曲する才能なんてないのでは?」…。騒動の張本人である佐村河内守に向けられたカメラは、なにがフェイクなのかを、徐々にひもといていく。監督・撮影=森達也/出演=佐村河内守ほか/6月4日(土)より渋谷・ユーロスペース、横浜シネマジャック & ベティにて公開中。全国順次公開。©2016「Fake」製作委員会
www.fakemovie.jp

次の作品へのモチヴェイションは?

「いまはまたHPがゼロになっているので、次回作についてはあまり考えられないです。ただ、ドラマをやりたいとは思っています。世間はぼくのことをドキュメンタリー専門だと思っていますが、そもそもフィクションは大好きですし、次はフィクションを撮りたいと思っています」

フィクションといえば、例えば2016年のアカデミー賞をみても、『マネー・ショート』や『スポットライト』や『ボーダーライン』といった、映画という手法を使って社会問題に斬り込む作品に評価が与えられた。ポップコーンを食べながら楽しく観るだけではない映画文化をもつアメリカに対して、森はどのような思いを抱いているのだろうか?

「最近も試写で『ニュースの真相』を観ました。これ、原題は『Truth』だから『FAKE』と真逆です。でも素晴らしかった。CBSとかダン・ラザーとかジョージ・ブッシュとか、すべて実名で登場します。日本なら朝毎新聞とか東亜テレビとか仮名にしてしまう。だってエンターテインメントです。ところがしっかりと政治や社会を批判する。

ハリウッドは昔から、アメリカンニューシネマも含めて社会問題に斬り込んでいましたよね。それでエンターテインメントに仕立て上げる。『大統領の陰謀』や『華氏911』だけではなく、大ヒットした『アバター』は、明らかにイラク戦争や先住民族を殺戮してきたアメリカの負の歴史へのメタファーです。アメリカは問題ばかりの国だけど、表現や言論の自由、そしてジャーナリズムの骨格は、確かにすごいと思う。その点、日本は脆弱ですよね。批評性も弱いし、エンタメにもできない。せいぜいできたとしても、ドキュメンタリーでなにかを告発する、みたいな。非常につまらなくて痩せたものしかでいない。実はアメリカも集団化を起こしやすい国です。なぜならunited(統合)されていないから、統合されることへの希求が強い。その結果として大きな間違いを起こす。でも日本よりは、自浄作用というか復元力がはるかに強い。理由はやはり、真の意味でunitedされていないからです」

いろいろなものが幼稚化しているいま、この『FAKE』は、なにかしらの楔になるのではないだろうか?

「さっきも言った通り、ぼくとしては純愛映画を撮ったつもりですけど、それが楔になるのだとしたら、社会の方に楔を打たれる理由があるのでしょうね。『といって森達也は笑った』といった感じで書いておいてください」

最後に、佐村河内守は本作『FAKE』を観たのだろうか?

「簡易な字幕テロップをつけて観てもらいました。彼としては心外のカットもあるとは思うけれど、『撮られると決意した以上、作品は監督のものだから』と言ってくれています」

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