焼いた食パン4万枚「とと姉ちゃん」重要人物モデル「暮しの手帖」花森安治の掟破りな編集スタイル

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大橋鎭子『「暮しの手帖」とわたし』を原案とする連続テレビ小説『とと姉ちゃん』に、6月20日の週から重要人物・花山伊佐次が登場する。
花山のモデルは《暮しの手帖》の初代編集長・花森安治だ。

同誌は、自社広告以外の広告を載せない。


女性誌(当時の言いかたで言えば婦人雑誌)としては、1980年代のマガジンハウスなどのやりかたとは正反対な戦略だ。
それでも《暮しの手帖》はリニューアル前の(2015年までの)《ku:nel》には大きな影響を与えているように見える。


スポンサー無しが可能にした商品テスト


「スポンサーがない」という条件のおかげで成立した名物企画がある。「商品テスト」と呼ばれるものだ。

ベビーカー、炊飯器といった道具や機械、さらには味噌や髭剃りクリームなど、家庭で使うあらゆるものを、各社製品取り揃えてじっさいに使用し、品質を見極める、という荒技だ。
石油ストーヴの定番・アラジンのブルーフレームは、この商品テストで名を上げたようなところがある。

商品テストでは、水洗い可能を謳ったジャケットをじっさいに洗っては着、洗っては着、何回かやってみたら縫製が怪しくなったので、「クリーニング代をケチるほうが損」という結論に行きつく。
各種トースターで総計4万枚トーストを焼いてみた。写真を見ると積み上がった食パンがフレームアウトしていて、煉瓦かなにかの工場のようだ。
やることがいちいち徹底している。

1953年に研究室は銀座の編集部から独立して東麻布に移転した。東麻布は大使館が集まっていたとはいえ、当時はまだ住宅や商店街もあったという。
だから、樹脂加工フライパンのテストのときは、八百屋さんが市場から廃棄される葉物の外菜を大量に都合してくれた。
魚焼き器のテストでは、条件の平等を期するため、大きさの揃った魚を仕入れてくれるよう、魚屋さんにお願いしたこともある。
各社炊飯器のテストでは毎日何升ものご飯が炊けてしまう(相撲部屋か!)ので、ご近所に配って食べてもらった。

スポンサーがいたら、こんな企画できるわけがない。テストする商品群はすべて社費で購入し、実験も社員がみずからの手でおこない、記録する。
初期の社名である衣裳「研究所」という名称はダテじゃない。大学の理系学部の研究室なみに24時間フル稼働のこともあった。

暮しの手帖社社員の暮し


だから、雑誌社でありながら、社内に洗濯機やキッチンがあり、残業する社員用に夕食当番もある。花森編集長も基本、残業した。

花森の評伝を各種読んでみると、彼はなんでもこなすたいへんなモーレツ編集長である。怖いワンマン編集長なのだ。
《暮しの手帖》は戦後の日本人の暮しを応援したが、こんなボスの下で働く社員の暮しはたまったものではない。

《暮しの手帖》編集部員にも暮しがある


酒井寛の日本エッセイスト・クラブ賞受賞作『花森安治の仕事』(1988)は、最初の花森評伝だ。かつて朝日文庫で出ていたけれど、いまは暮しの手帖社版が読める。


これによると花森は、クリスマスの晩には所帯持ちの社員は全員家に早く帰し、独身の社員を連れて銀座で夕食をおごり、新橋のショッピングセンターに行って、社員各人が望むものを買ってあげた。
予算は各自1,000円、あるいは2,000円。昭和もいつごろの話なのか明記していないため、現在の円でいくらぐらいなのかはよくわからない。

なんだか売れっ子芸人がドンキホーテで後輩をもてなしているような風景だけれど、花森にも妻子がいたのでちょっと複雑な気がする。
花森本人の暮しはどうなってるの?的な疑問。

先駆的なワークライフバランス観


酒井寛が暮しの手帖社を取材したときには、花森の死後10年近くたっていた。
その時期の編集部には、夫の仕事について行って外国在住となった編集部員とか、大学院で薬学を勉強しながら週1で通っている部員、イタリアで料理を学んでいる部員、育児・介護をしながら在宅で編集を手伝っている部員もいたという。
インターネットが普及した現在でも、こういう働きかたを実現していない企業が多いことを考えると、なかなかに先駆的だ。

花森編集長時代にも、そういう編集部員は少しはいたのかもしれない。
ただ、各種評伝ではそこんとこ確認できない。逆にモーレツ残業や夜討ち朝駆けの話ならいくらでも出てくる。

上記の放し飼い社員という先駆的採用形態はもちろん、酒井の取材時がバブル期で、花森時代よりも外国に行きやすくなったという事情がある。
あるいはひょっとすると、このワークライフバランスに、花森亡きあと編集部を牽引した大橋鎭子の個性が出たのかもしれない。

衣裳を合理的に改善する


ところで花森の奇人ぶりは、やはりファッション面での尖りっぷりで知られる。
長髪にパーマをかけて後ろで結んだロックなヘアスタイル。戦後すぐだから、これは目立った。
スカートを履いて歩いていたという伝説。ほんとはキュロットかもしれないけれど。

さらにその15年以上前の学生時代には服を自作して、それを着ていたこともある。
1930年代の日本と考えるとまさに「奇行」に属するが、いっぽうで当時の帝大生ならこれくらいの奇人(あつかいされる人)の発生率は他の環境よりは高いだろう。

馬場マコト『花森安治の青春』によると、大学時代、帝大新聞編集部一同で夏休みに沼津を訪れたさい、花森は大きなバスタオルを和裁ふうの直線裁ちで頭からかぶる服に仕立てた。即興のタオル地Tシャツみたいなものだ。


そこにひとりの男が近づき、〈君、その服は歴史的な服だよ〉と感心し、写真を撮らせてくれという。この写真はのちに《暮しの手帖》6号に掲載される。
その写真家がじつは木村伊兵衛(1901-1974)だったというから凄い話。あの木村伊兵衛賞の。
木村は当時、名取洋之助が設立した日本工房に所属していた。


同じころ(1930年代前半)、連続テレビ小説「カーネーション」(2011-2012)の主人公のモデル・小篠綾子(1913-2006)が独自の立体裁断を編み出していたことを思い出す。


花森より2歳年下の小篠は、プロとして立体裁断に行きついた。
対照的に花森は、約15年後、戦後すぐに、和服を洋服へとリメイクするのにも有効な直線裁ちを世の一般家庭に広めるために、大橋鎭子らとともに各地でキャンペーンを展開する。
いわばアマチュアとして、同じアマチュアである家庭人に向けて、直線裁ちを積極的に展開したというわけですね。

以前エキレビ!の記事「新朝ドラ「とと姉ちゃん」を見る前に知っておきたい最低限のこと 大橋鎭子と花森安治と「暮しの手帖」」で、花森の多才を、20年以上後輩のエディトリアルデザイナー堀内誠一1932-1987)のそれに比したことがある。マガジンハウスの《an・an》、《Olive》、《POPEYE》、《BRUTUS》のロゴで有名だが、それ以外に「え、あれも? これも堀内誠一?」と言ってしまうほど、いろんな仕事をした人だ。


けれど、こういったパタンナーの仕事にまで踏みこんだ「衣生活」改良という点では、《それいゆ》、《ジュニアそれいゆ》で知られるイラストレーター/編集者の中原淳一(1913-1983。小篠綾子と同じ年に生まれている)や、下着デザイナーでエッセイストとしても人気が高い鴨居羊子(1925-1991)と並び称されるべき存在なのだと思う。


ちなみに中原淳一夫妻(中原夫人は宝塚の男役トップ)と鴨居羊子は、朝ドラの主人公のモデルに取り上げてほしい人物なんですよね。


商品開発への進出


《暮しの手帖》の生活改善戦略は、具体的なグッズにまで及んだ。
1958年夏の、大橋鎭子の米国視察によってもたらされたものが、台所用布巾のプロデュースだった。
大橋が持ち帰った綿・化繊混紡の米国製布巾をヒントに、混紡率と織りかたを2年がかりで日東紡績と共同研究し、高い吸水性と連続洗濯に耐える強さを追求、現在まで続くロングセラーの大判日東紡布巾を生み出した。いわゆるダブルネームである。

同誌は1965年には日本冶金工業、ナス・ステンレス製作所(のちのナスラック)、尾崎製作所(ピーコック)と共同でステンレス流し台「シルバークイーン」(誌面では「シルバークイン」)をプロデュースしている。
こういうのを見ると、《暮しの手帖》ってほぼ日の先駆形だよね。

「戦後」と呼ばれる時代を、政治や経済や社会事件の大きな文字だけで想起すると、つい抽象的になってしまう。
でも、大橋鎭子や花森安治らが生み出した具体的なグッズの情報をとおして見たときには、その時代が、手触りや匂いを伴って脳内に再構成されるのだから不思議だ。

 朝ドラつながりで言うと、花森は大政翼賛会時代に、のちに自伝『梅桃〔ゆすらうめ〕が実るとき』がが朝ドラ「あぐり」の原作となった吉行あぐり(1907-2015)と共同作業で婦人のヘアスタイルにかんする記事を作成してもいるのだが、それはまた別のお話。


(千野帽子)

参考/「とと姉ちゃん」唐沢寿明演じる編集長創刊の「暮しの手帖」全巻展示中、手にとって読めます