宇佐美(右)が年齢別代表で常にエースを務めてきた一方、小林(左)は主軸に食い込めなかった。写真:小倉直樹(サッカーダイジェスト写真部)

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 キリンカップの日本代表メンバーに小林祐希が初招集されたことで、再び脚光を浴びているのが、92年生まれの「プラチナ世代」だ。宇佐美貴史や柴崎岳など多彩な才能がひしめくが、しかし期待値が高かった分だけ、総じて停滞傾向が浮き彫りになっているのも事実である。

 92年生まれが初めて特別な輝きを発したのは、11年前のことだった。

 アジアフェスティバルに参加したU-13日本選抜は、ライバルの韓国にまったく付け入る隙を与えずに快勝する。後にU-17代表を率いて年代別ワールドカップに出場する池内豊監督も「どのカテゴリーでも、こんな内容で韓国を圧倒するのは見たことがなかった」という。それからこの世代は「プラチナ」と呼ばれ、期待を膨らませていくのだった。
 
 確かにプラチナ世代には、多彩な才能が集まっていた。また個々が注目されることで、早くから意識も世界へと向けられ、互いの競争意識も高まっていった。

 先陣を切ったのが宇佐美貴史だった。中学2年時にG大阪ジュニアユースのキャプテンマークを巻きチームを日本一に導くと、早々とユース登録を済ませてしまう。
 
 ちなみに翌年のU-15選手権決勝では当時東京Vの小林祐希が素晴らしいゴールを決めたが、宇佐美不在のG大阪に逆転負けを喫している。宇佐美はプラチナ世代の旗頭であり、歯に衣着せぬ親分肌だったようだ。それから3年後、小林がU-18日本クラブユース選手権で東京Vを優勝に導きMVPを獲得すると、さっそく手荒い激励メールが届く。
 
「その程度で調子に乗っているようじゃ、おまえの時代なんか絶対に来ない!」
 
 結局小林は、年齢別代表では主軸に食い込めなかった。

 プラチナ世代には攻撃的な才能が横おう溢いつしていた。U-17代表を指揮した池内監督は、アタッカーを絞り込み、半面ボランチを託せる人材発掘に苦慮していた。

 実際にワールドカップでもボランチで並べたのは所属チームでは攻撃を操る柴崎岳(鹿島=当時青森山田高)と小島秀仁(愛媛=当時前橋育英高)で、FIFAの技術委員会からもこんな評価が下されている。

「日本の攻撃は素晴らしい。しかし、相手のカウンターへの準備ができていなかった」
 そんな状態だから、守備が発展途上だった小林を組み込めば、攻撃偏重が助長されるだけなので、さすがに指揮官も招集を見送った。
 
 それでも小林は比較的順調に成長し、東京Vでは10代でキャプテンに任命された。ただしポジションは、ユース時代のトップ下からボランチへと変わり、少なからず葛藤もあった。
 
 一方で同年代には、さらに先を走る冒険者たちがいた。宇佐美がバイエルン、宮市亮はアーセナルと契約し、特に宮市はレンタル先のフェイエノールトでブレイクし日本代表にも選出される。また中高年代で小林と見事な連係を見せていたチームメイトの高木善朗も、オランダへ渡りユトレヒトへと移籍して行った。
 
 だが20歳前後からのプラチナ世代は、期待値が高かった分だけ、総じて停滞傾向が浮き彫りになる。
 
 10代の頃は、どんな強豪国のエースにも引けを取らなかった宇佐美は、ハイレベルな仕掛けは目を引いても「戦えない」と評価を落としてドイツから帰国する。G大阪でも突出した攻撃面とは裏腹に、ハードワークというハードルがクリアできずに、アルベルト・ザッケローニ時代後半から、ハビエル・アギーレ期まで日本代表への選考を見送られた。
 
 2012年ロンドン五輪代表には、辛うじて宇佐美と杉本健勇が滑り込むが、前回のブラジル・ワールドカップは誰も経験していない。U-17代表で何度か対戦しているネイマールには瞬く間に水を開けられ、香川真司も含めた北京五輪世代の尻を叩けなかったという点でも、日本サッカー界にとって大きな誤算となった。