左・フジテレビ『 ワイドナショー』番組ページより/右・TBS『サンデージャポン』番組サイト

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 様々な議論を呼んだ、北海道男児置き去り事件。しつけとして北海道の山中に置き去りにされた小学2年生の田野岡大和くんは6日間行方不明ののち、奇跡的な生還を果たした。

 発見前は「父親の殺人」などという心ないデマが流されたが、発見されてからは大和くんのサバイバル力を讃える声があがる一方、大和くんに対し石を投げたことを反省してないなどという心ないバッシングの声も少なくない。

 たとえば大和くんが保護された2日後の今月6日『ワイドナショー』(フジテレビ)で松本人志は「この家族のこの先がちょっと心配(略)会見見た時にごめんねってお父さんが言った『ごめんね』。うーん、『ごめんね』わかるんやけど、それに対して息子が、『うん』と言ったって。結局、石投げたことを反省してないんちゃうんかっていうね」と語った。

 続けて「信念があれば、置き去りもあり」などとも語っていたが、まあ、もともと体罰肯定派のうえ、最近、ネトウヨ化が激しい松本だから、この程度の発言に驚きはない(そう言いながら自分の娘を怒ったことがないという話には驚いたが)。

 意外だったのは、同じ日の『サンデージャポン』(TBS)での太田光の発言だ。『サンデージャポン』でこの事件を取り上げた際、太田はこんな話を披露した。

「オレ、『トム・ソーヤーの冒険』が大好きなんだけど、似たような話がなかに出てくるんですよ。おばさんに怒られて、無人島に行くんですよね、ミシシッピー川の。そうすると、町中がもう死んだと思って、捜索するんですね。トムはそれでわくわくして、帰ったらヒーローだってなって、自分の葬式に乗り込んでいくっていうシーンがある。それで、おばさんと泣きながら抱き合って、『よかった、よかった』『おばさんも怒り過ぎた』って言うんだけど、その後、トム・ソーヤは学校でヒーローになるんだけど、その後、先生にはお尻を鞭で20回叩かれるっていうそういうオチがある。そんなに大人に心配かけたお前が悪いって、ちゃんと叱られるんだよね」

 トム・ソーヤーも、同じような悪いことをしたけど、最後は厳しく叱られ、ちゃんとしつけられた。だからこの男児も、このあとちゃんと厳しく叱られるべきだと太田は語ったのだ。

 この太田の話に、杉村太蔵は「いい話だなあ」などと大げさに感心し、ネットでも「トム・ソーヤーの話よかった」「太田さん、さすが」などと称賛されていた。

 9日発売の「週刊文春」(文藝春秋)も、男児の普段の行いなどを関係者コメントであげつらったあげく、太田と同じ『トム・ソーヤーの冒険』を持ち出し、こう説教していた。

〈名作「トム・ソーヤーの冒険」にこんなエピソードがある。父親に叱られた親友と家出し、行方不明事件を起こしたトムは、自分たちの葬式を行う教会に忍び込み、人々と涙の再会を果たす。だがその後、教師は英雄然としたトムの尻を鞭で打ち、反省を促すのだ。〉

 しかし、太田も「文春」も完全に誤読というか、勘違いしている。たしかに『トム・ソーヤーの冒険』にはトムが家出をして行方不明になり、自分たちの葬式にあらわれ町のみんなをびっくりさせる、というエピソードがある。

 しかし、このエピソードに教師からお尻を鞭打ちにされるなどというオチは存在しない。トムを育てているポリーおばさんに「一年分よりもっと多くのゲンコツとキスをもらった」うえ、「なかなかいい冗談だったけど、私をこんなに心配させるなんて。せめて私だけには、死んでない、家出してるだけって知らせてくれたらよかったのに」と愚痴られるくらいだ。

 そして、トムはまったく反省などせず、そのあとも学校でヒーロー然としてふんぞり返りパイプをふかしながら武勇伝を披露する。学校のみんなはそんなトムに羨望のまなざしを向けており、とがめる教師やほかの大人はいない。調子に乗ったトムはおばさんにさらに噓をついたりもするが、結局おばさんのほうが「許すよ、許すとも。百万の悪さをしでかしても、これであの子を許せるよ!」と号泣してこのエピソードは終わる。

 行方不明事件のあと教師に鞭打ちにされるというのは、1980年代に放送されたアニメの『トム・ソーヤーの冒険』と混同したのかもしれない。といっても、アニメ版でも鞭打ちにされたあと、トムは反省なんかしていなくて学校でヒーロー扱いだった。

 断っておくが、太田の細かい記憶まちがいをあげつらいたいわけではない。問題は、太田が『トム・ソーヤーの冒険』の訴えたいことを180度正反対のものとして読み替えていることだ。

 たしかに『トム・ソーヤーの冒険』では、ドビンズ先生という中年男性教師が、トムら子どもたちが悪いことをするといつものように何十回も鞭打ちにするというのが物語のお決まりになっている。

 でも、それは太田が語ったような"正しいしつけ"として描かれているわけでなく、「大人」「偽善」の象徴だ。

 ドビンズ先生は「かなわぬ夢を抱いたまま中年」になり、子どもに厳しくするのは、たとえば「参観日に立派な教育の成果を披露したいから」などという自分の見栄のためだったりする。「ドビンズ先生の暴虐ぶりはいよいよ本性を顕し、ほんの些細な落ち度にも執念深く罰を与えて楽しんでいるよう」とすら描写される。

 だから、この行方不明事件の少しあと夏休み前に、トムたちは、いつも鞭打ちしてくるドビンズ先生に仕返しを計画。ドビンズ先生のヅラをとってハゲ頭をさらして笑い者にして、見事復讐を果たす。そして夏休みが始まり、ドビンズ先生は物語の後半からは退場。先生の正しいしつけによってトムが反省するどころか、鞭打ち先生のほうが子どもたちに退治させられてしまうのだ。

 つまり『トム・ソーヤーの冒険』は、太田が語ったような「正しいしつけ」とか「反省」とは無縁の世界。というより、しつけとか、道徳とか、公序良俗とかのバカバカしさを暴き出し、教訓めいた子ども向け小説のアンチテーゼとして書かれたものだ。

 件の行方不明葬式事件でも、それまで「鞭打ちでは甘いくらいだ」と怒ってばかりいた大人たちが葬式になったとたん、少年たちの美徳や愛すべき性格を回顧するという"手のひら返し"をおもしろおかしく描いている。いたずらっ子のトムは、いたずらっ子なまま、むしろ悪ガキだからこそ、財宝を手に入れ、そして大人にならないまま物語は終わる。

 アメリカの文芸評論家レスリー・A・フィドラーは『アメリカ小説における愛と死』(新潮社)のなかで、トムの弟シドのような品行方正のいわゆる良い子をgood good boy、トムのような悪ガキをgood bad boyとして、以下のように論じている。

「グッド・グッド・ボーイは母親が彼にやって欲しいと望んでいるふりをしていることをやる、つまり、親の言うことをよく聞き、従うのであり、それに対して、グッド・バッド・ボーイは母が本当に彼にやって欲しいと思っていることをやる、つまり、噓をついて、親の胸を少し痛ませ、許してもらうのである」

 また、翻訳者の土屋京子氏は、good bad boyについて、こう解説している。

「グッド・バッド・ボーイは親の深い欲望や社会の偽善を見ぬく。すなわちグッド・バッド・ボーイは反抗を通じて、空虚な道徳を拒否し、より人間として本物であろうとするのだ。そしてグッド・グッド・ボーイよりも、まんまと周囲に愛されるのである」(『トム・ソーヤーの冒険』(光文社古典新訳文庫)解説より)

 トム・ソーヤーは「成熟して大人になることは必ずや社会との妥協を伴う以上、堕落であり、最高の人生とは生涯、少年の心を保ち続けることにある」(土屋氏)という、いまだにアメリカで根強い価値観を体現した存在なのだ。

 だからこそ、作者のマーク・トウェインはこの作品を「かつて子どもだった大人にも読んでほしい」と巻頭で宣言している。

 しかし、大好きだと言うわりに太田は、子ども目線で大人の偽善やくだらない道徳を徹底的にバカにし笑い飛ばすこの物語を、いつのまにか大人目線でいたずらっ子がしつけられ反省するというつまらない物語に読み替えてしまっている。

 しかも、この太田の誤読は単なる偶然ではないだろう。この国では、いつのまにか硬直した道徳主義がはびこり、good bad boyが許されるような自由な空気が完全になくなってしまった。未成年者の飲酒や喫煙、不倫や二股交際程度のことをまるで重大犯罪であるかのように糾弾し、謝罪させる。あげくは、こどもだったら、誰でもやるような「石投げ」にまで目くじらをたてて「反省しろ」と迫る。太田は、この道徳ファシズムの空気を内面化し、記憶に残っていたエピソードの断片の意味を、無意識のうちにその空気に沿う形でトム・ソーヤーの物語を読み替えてしまったのではないか。

 もうひとつ、この異常な道徳主義は「教養の欠如」と無縁でないことも付け加えておく必要があるだろう。様々な文学、哲学、異文化に触れていないから、わかりやすい、日本会議の語るような視野狭さくの道徳主義に簡単にはまってしまう。

 太田光も同様だ。トム・ソーヤーすらきちんと読めていないから、「大人はちゃんと叱るべき」みたいなこんなつまらない説教をしてしまうのだ。

 いや、太田だけじゃない。テレビでは、今、お笑いブームが終わって仕事にあぶれたお笑い芸人たちが大量に社会情報番組に進出している。そして、思想や知識の裏づけのないまま、ただ大衆の空気を読んだだけの「正論」をがなりたて、異常な道徳主義を拡散させる役割を演じているのだ。

 この先、日本人はますます教養をなくし、自ら自由や余裕をどんどんなくしていくのだろうか。そのことを考えると、本当に絶望的な気持ちになる。
(酒井まど)