「女性の歴史は埋もれている」
女性史研究家であり評伝作家の江刺昭子(えさし・あきこ)さんは、20代後半でそう痛感し、74歳となる現在でもなお、教科書に載らない“女の歴史”を書き続けています。その作品は数々の文学賞・文化賞を受賞、女性史研究の分野に大きな影響を与えてきました。今回は、そんな江刺さんの生き方に迫ります。

募集要項に「女子も可」と記載されていた時代

――江刺さんは出版社に勤めた後、30歳を目前に独立されていますね。それまでの経緯を教えてください。

江刺昭子さん(以下、江刺):
広島で育ち、高校では文芸班で小説を書いたり雑誌を作ったりしていました。そして早稲田大学へ進学し、卒業後は出版社に入社、ファッション関係の女性誌で編集をしていました。特にファッションが好きだったわけでもなかったんです。

当時は1960年代で、1985年に男女雇用機会均等法が制定されるずっと前ですから、会社の募集要項に「女子も可」と平気で記載されている時代。有名大学を出ていても基本的に男子しか採用されませんでしたから、女子大生にとって就職活動は本当に大変だったんです。

その会社に7年勤めた後、友人と3人で出版社を立ち上げて、フリーランスで書籍や雑誌の編集をしながら、ものを書く仕事を始めました。

ウーマンリブ、大田洋子さんとの出会い

――そもそもなぜ、女性史の研究をしようと思ったのですか?

江刺:フリーランスになった頃、ちょうど日本でウーマンリブが盛んに叫ばれ始めました。ウーマンリブとはWomen’s Liberationから生まれた造語で、1960代後半にアメリカで始まった女性解放運動のことを指します。

私自身はリブの運動には入らなかったのですが、あの方々の活動を見て目が開かれたんです。これまで、男女の“違い”について「なんかいやだな」とは感じつつも、問題として意識していなかったんです。そういう時代でした。女性は結婚して、家事育児を担うのがあたりまえで、男女差別という概念も確立されていなかった。わたしのうちも共働きなのに、夫は全く家事をしませんでした。

それがリブのおかげで、「女性だけが家事をするという状況は、なぜ起こるのか」「それは個人の問題ではなく社会の問題なのだ」といった問題意識を持つようになったわけです。

また、大田洋子さんとの出会いがとても大きかったです。

――大田洋子さんとは?

江刺:大田さんは広島の被爆者で、『屍(しかばね)の街』など原爆文学を書いていた作家です。日本は1952年までアメリカの占領下で、原爆被害について書くことを制限されていました。つまり、被爆した人は自分について話すことをあまりしなかった、あるいは、できなかった。それでも彼女は必死で書いていました。

私自身も広島で育ちながらも原爆について意識していなかったのですが、高校1年生の時に大田さんの原爆文学と出会いました。そして、当時広島に住んでいた大田さんの妹さんから大田さんの原稿などを借りて、文化祭で展示したんです。

それから数年後、大学3年生の時に後輩の女性の紹介で東京の大田さんのお宅に下宿することになりました。その頃大田さんは50代後半。亡くなる数年前のことでした。鼻っ柱の強さは健在で、卒論を大正時代の作家・田村俊子で書くと話したら「私にしなさいよ」なんて言われて。大変な時代に逆境を生き抜いてきた女性という感じでした。

結局、田村俊子をテーマに卒論を進めました。そして大学4年の暮れに大田さんが急死したんです。結果的に晩年を一緒に過ごした形になりました。

女性作家に贈られる「第12回田村俊子賞」受賞

――“原爆作家”と呼ばれた大田さんの生き方に胸を打たれたんですね。

江刺:大田さんが亡くなってから7年後、出版社を立ち上げた際に友人から「大田さんについて書いたら?」と勧められて、大田さんの評伝『草饐(くさずえ)』を書き始めました。全国を回って取材をして、会社を辞めてから8ヵ月ほどで出版。

するとその本が、女性作家に贈られる「第12回田村俊子賞」を貰ったんです。大田さんのもとで田村俊子の卒論を書き、7年後に大田さんの評伝を書いて田村俊子賞をとる。この流れには、すごく運命的なものを感じましたね。

政治や経済、労働運動などはほとんどが「男の歴史」

――ドラマティックですね。大田さんの評伝を書いてみて、ご自身の中で変わったことはありましたか?

江刺:『草饐』を書くために文学史を勉強したら、女性差別はとても長い歴史の中で作られてきたとわかったんです。多くの男性作家が有名大学の出身であるのに対して、大田さんは女学校しか出ていない。そのせいもあって“女だから”と、作家としてまともに相手にされてこなかったんです。

かといって、男性と付き合えば「ふしだらな女だ」と非難される。男性がどんな女性と寝ようと誰も何も言わない。つまり“スキャンダル”は男が生み出しているんだ、私がこれまで習った文学史はおかしいんだと気づきました。教科書に出てくる政治や経済、労働運動にまつわる歴史も、ほとんどが「男の歴史」なんですね。社会活動をした女性は知られていないだけでたくさんいるし、女性がどんな暮らし方をしてきたのかも、ほとんどわかっていない。ならば、女性の評伝を書きながら、近現代の女性の歴史を勉強しよう。そこが私の女性史学の出発点ですね。

女性史を研究するということ

――当時は、女性史を研究するというのは大変だったのではないでしょうか?

江刺:1970年代は“女性史”が学問として認められていませんでした。大学で歴史を専門に勉強していたわけではなかったので、とにかく独学で必死に本を読んで、ひたすら歴史を勉強しました。

また、1980年に出した『覚めよ女たち 赤瀾会の人びと』を取材、執筆していた頃は既に子どもがいたので、さらに通史を2冊も書いて子育てもしてと、独学は本当に大変でした。でも、眼からウロコが落ちるというでしょう。今まで、私自身が男の眼でものごとを見たり、考えたりしていたのが、女の視点を獲得したら、今までの常識がひっくり返った。

知らないことがわかる、勉強したことがどんどん頭に入ってくるという感覚が、本当に面白かったですね。それに尽きます。自分のやりたいことに出会ったので、いろいろ苦労はあったものの切り抜けられたんだと思います。

女性史も最初は、日本の中央の女性の政治参加や労働運動の歴史を書いていましたが、80年代に地域女性史に出会ってからは、中央ではなく地方、主流ではなくアウトサイダーの人物や歴史に惹かれるし、これからもそういったことを書いていきたいんです。

主流から「はみ出す」姿勢

――江刺さんの生き方を伺っていると、「当たり前のことを疑う」「主流からはみ出す」という姿勢が見えてきます。それはどのようにして培われてきたのでしょう?

江刺:幼い時は体が弱くて3分の1ほどしか小学校に行けなかったんですが、今振り返るとそのことが影響しているのかな、と思います。世の中は“異端”を排除しがちですし、学校教育はよくも悪くもすべての人間をひとつの型にはめる傾向がありますよね。学校にあまり行けなかったことで、その精神性が根付かなかったのかな、と。

皆がいっせいに右に行ったら一度止まってみる、左に行ったら一度引いてみる。私が今、ものを書く姿勢もそうですね。周囲にどっぷりつかってしまうと見えなくなるものもあります。はずれていることを恐れない。もちろん、ただはずれるだけではダメで、ちょっと横を向きながらも信念を持って仕事をしていくこと、ちゃんと生きていくことが大事なんだと。

“先を考えずに生きる”という選択肢

――最後に、今を生きる20代、30代の女性に向けたアドバイスはありますか?

江刺:今の若い人は、年金がどうだ、老後がどうだといったことをよく言いますよね。メディアが煽るせいもあると思うんですが、私が20代、30代の頃は先のことなんて考えもしなかったです。会社を辞めた時の退職金は半分を新会社に投資して、半分を北海道一人旅にあてましたよ。若かったのでお金がなくなっても気にせずやりたいことをやっていました。貯金とか年金とか、あんまり不安にならなくていいんじゃないの、と思います。

結婚できるかどうか心配している人も多いですよね。おたがいを尊敬して向上できるのであれば結婚もいいですが、一夫一婦制で縛ることが本当にいいのかなとは思います。不倫だって、結婚制度があるから存在するんですから。

不倫に対するバッシングも経済力の問題?

江刺:歴史的にみていくと、江戸時代まで庶民は結婚も恋愛も自由でした。武士は家を自分の息子に継がせたいから妻が他の男と関係を持ってはならないと家制度を作って妻を縛った。その武士が明治時代になって政権を握り法律や教育制度をつくり、そのまま今につながっているわけです。

不倫に対するバッシングは、最近だと女性ばかりでなく男性にも向くようになってきましたが、いまだに女性に対する非難の方が強い。これはおかしいと常に感じてきました。結婚や不倫も結局は経済力の問題だと思います。経済力をつければ特定の男性や一夫一婦制に縛られる必要もないですから、誰と寝ようと勝手。もっと女性は解放されてもいいんじゃない?と思います。

(石狩ジュンコ)