電子メールやチャットなどがまだない時代、「文通」が人気となっていた。その手紙に張られる「切手」が、広東省中山市の切手収集家・楊伯鉅さんと日中友好協会・姫路支部の会長を務める福田一郎さんを結び、国境を越えた2人の友情は30年以上続いている。

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電子メールやチャットなどがまだない時代、「文通」が人気となっていた。その手紙に張られる「切手」が、広東省中山市の切手収集家・楊伯鉅さんと日中友好協会・姫路支部の会長を務める福田一郎さんを結び、国境を越えた2人の友情は30年以上続いている。中山日報が伝えた。

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2人の手紙のやり取りは、日中の民間友好交流の懸け橋ともなってきた。現在、2人は高齢になったものの、その良い関係は終始変わることはない。2人の切手交換が、日中の文化交流を継続させている。

■福田一郎さんはどんな人?
楊さんは若い時から切手収集が趣味で、いつでもストックブックを持ち歩いている。1980年の夏休み、楊さんは研修に参加した際、ある中学・高校の教師・姜平さんに出会った。姜さんは切手収集に夢中になっている楊さんを見て、しばらく前に日本人から学校に切手が送られてきて、中国の切手を送ってほしいと頼まれたことを話した。すると、楊さんは興奮気味に、「その日本人の情報を教えてほしい」と頼んだ。研修が終わり、楊さんは見知らぬ日本人である福田さんに1通目の手紙を送った。

しばらくして、楊さんは返事を受け取り、福田さんは切手収集家ではなく、兵庫県姫路市の日中友好協会の会長で、中国文化研究会の会長でもあること、切手を送ってほしいと頼んだのは日中文化交流を展開するためであることなどを知った。福田さんはまた、切手以外に日本の学校に送ったり、協会が開催する中国文化展覧会で展示したりするために、中国の書道の掛け軸や中国画なども送ってほしいとのことだった。

福田さんが手紙のやり取りをした中国人は楊さんが初めてではなかった。1955年、神戸大学で中国語を学んでいた福田さんは、当時の中国の外交部の部長を兼任していた周恩来首相に手紙を書き、中国の民間の文化を日本の子供たちに紹介したいと願っていることを伝えていた。

楊さんが提供してくれた資料に、1975年11月28日の「毎日新聞」の切り抜きのコピーがあった。そこには次のように記されている。

「1956年春、周首相からの返信ときれいなイラストブック40冊を受け取った福田さんは、すぐにそれを日本語に翻訳。『毎日小学生新聞』と『毎日中学生新聞』に掲載し、子供たちの間で人気になった。その後、福田さんの元には、周首相から図書500冊が送られてきた。1975年、周首相が重病を患った際、国際ペンフレンド協会の会長だった姫路市立飾磨小学校の教諭・福田さんは、日本各地からお見舞いの手紙130通を集め、北京駐在の小川大使を通して周総理に『一日も早い回復を願っている』と伝えた。それらの手紙は、北の北海道から南の宮崎県の日本全国の小学生や文通愛好家が書いたもので、『日中友好のために多大の努力を払っている周総理が一日も早く元気になることを心から祈っている』ことが書かれていた」

周首相のほか、福田さんは中国の毛沢東主席や宋慶齢副主席にも手紙を書いたことがあり、それぞれ返信も受け取った。「毎日新聞」も1956年9月27日に、「毛主席が福田さんに図書4冊を送った」とする記事を掲載した。その記事の切り抜きや宋副主席の返信のコピーを、福田さんは楊さんに送った。

■文通で中国人と日本人の心結ぶ
国際ペンフレンド協会の会長の福田さんは、楊さんの連絡先を文通したい人のリストに加えた。その時から、楊さんは日本のペンフレンドが増えた。ペンフレンドには、店員、農民、ビジネスマン、学生などがおり、手紙には永遠にわたる日中友好を願う声や中国に対する熱い思い、関心が込められていた。

楊さんも日中友好を促進するために、情熱を抱いて、中国の切手やはがき、しおり、切り紙細工などを送った。中には、中国に旅行に来たペンフレンド、旅行ついでに楊さんに会いに来たペンフレンドもおり、中山市の孫中山(孫文)の研究を一生懸命手伝ってくれた。

福田さんも何度も中国を訪問しており、1983年と1985年には広州と珠海で楊さんと会っている。楊さんは取材に対して、「福田さんはずっと中国各地の文明の進歩に関心を抱き、中国のニュースを熱心に調べ、事情を把握しようとしている。そして、日本のメディアや講演、展覧会などを通して、それを紹介している。若い時、日中友好活動をスムーズに進めるために、福田さんは中国語も学んで話せるようになり、書道の掛け軸を中国の友人や関係機関に送ったりもしていた」と語った。(提供/人民網日本語版・編集KN)