『先生の白い嘘』『おんなのいえ』『地獄のガールフレンド』など、複数の雑誌で連載をもつ漫画家、鳥飼茜さんのエッセイ連載が始まります。第一回のテーマは、「鳥飼茜」というペンネームの名付け親、N田くんの話です。(編集部)

鳥飼茜になってひと回りしました

鳥飼茜という漫画家になって今年で12年目になります。

こないだ自分のとこのアシスタントとして新しくやってきた子が23歳で、ひと回り年下、つまりこの子と同じ歳にデビューしたわけで、感慨深いかというとそうでもなく、あっという間に年月は経つし、その分様々なことがあっての今なわけですけど、12歳下だからって全然感覚が違う訳でもなく、ただ年月がひと回りしたってことですね。

生まれつき怠け者なんです

あの時となにが違うだろう、と考えてみるとまずは連載をできるようになったのが漫画家としては圧倒的に、違います。いまはありがたいことに3つも連載をさせてもらっています。そんなにたくさんの仕事を自分がするようになるとは夢にも思っていなかったでしょうね、23の自分は。なんたって、バイトでも週4以上は働かないと決めてたくらいの怠け者だったのです。今でも1日に2人以上の人と会うのはかなり心労ですからね。生来のだらしなさです。小さい時は父親にグズラと呼ばれていた子です。ちなみに小学生の頃は担任に忘れ物大王と呼ばれていました、今だったら事案ですけどそういう子どもでした。高校も大学も単位が足りなくて、学年末ギリギリに補習&恩赦で進級、卒業できた私です。

私はなんでこんなに頑張り屋さんになれたのだろうか。考えるほど謎が深まります。
生まれ変わったのか。
生まれ変わったのかもしれない。
鳥飼茜として、12年前に生まれ変わったのではなかろうか。

ペンネームの、歴史と質量

鳥飼茜という名前はそんなに特殊な名前ではないと思うけど、これはペンネームであり本名ではありません。

名前を変えたからって人格が変わるわけではないと思いますが、ペンネームというのは屋号であり、仕事とその、歴史を背負っています。だから歳を追う毎に、質量が変わってきます。面白いです。最初に付けられたときの鳥飼茜とは、明らかに質量が違うと感じます。

N田くんの話

デビューのとき、鳥飼茜という名前を付けてくれたのは、大学の友人N田くんです。

N田くんとは共に近くに一人暮らしをしていた大学当時、かなりの頻度で遊んでいました。N田くんと国道沿いの王将で餃子を食べ、国道沿いの悟空でラーメンを食べ、二日酔いの激しい朝はN田くんの買ってきてくれたソルマックを飲んで数秒で吐き、N田くんのバイクの後ろで時速80キロで掌に感じる風がちょうど女の子のおっぱいの弾力と同じであることを教えてもらい、N田くんが事故で(確か部活のラグビーで怪我したとかだった)で入院していた時はN田くん以外の友人と楽しく遊び、N田くんが貸してくれたドリームキャストで遊び、もうN田くんのいない大学生活なんて到底考えられないほどですが、よくある大学生の実態と違わず私たちはひたすら「友だち」であり続けた。大学を卒業してからもそれは続き、私たちが友だちだった間にどちらも何度か恋人が変わり、私は結婚のち離婚もし、今ではN田くんにも奥さんができ、だからというわけではなくその間のいつの頃からか、私たちは会わなくなった。べつに連絡できないわけじゃないけど、お互いしなくなりました。

いちどだけ、別のある友だちになかば強引に誘われ北島三郎のコンサートに行ったことがあります。

「絶対感動させるから。(三郎が)」

と言われて半信半疑で観劇した私は、果たして感動極まり切って号泣しながら爆笑、という感情が壊れるほどの衝撃を受けたわけですが、その舞台で北島三郎は自分のことを「『北島三郎』をやらせてもらって◯十年(わすれた)になります」と言ったのです。噛みしめるように発せられたこのセリフにはなんだか、ゆるく、じんわりやられました。

仕事をして、「屋号」を育てる

屋号なんですよね。やらせてもらっているんだと思います。半ば強引に立たされた人生という生の舞台そのものとは違う。選んで立った舞台なんですね。だからグズラと呼ばれるわけには行かず、忘れ物大王ではならず、週4以上働かなければならない。

N田くんとは会わなくなりましたが、与えられた屋号はどんどん育っています。

別にN田くんに恥じぬようとかではなく、さらにはN田くんが付けた由来である所のN田くんの中学時代の友達の鳥飼くんに恥じぬようとかではもちろんなく、でも毎年知らぬうちに質量を増すように、やって行きたい。

ひと回り下のアシスタントの子を見て、ってことでも特になく、何となくふと思いました。

(鳥飼茜)