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 5月10日の会見で、馳文科相が打ち出した“脱ゆとり宣言”が話題を呼んだ。毎日新聞の記事(5月10日 配信)によると、討論や体験などを通じて課題に取り組む「アクティブ・ラーニング」の全面導入に対して、「ゆとり教育の復活なのではないか」と懸念する一部教育関係者への配慮なのだという。

 さらに、「教育の強靭(じん)化に向けて」と題するメッセージも発表された。(参照:文科省)

<AI(人工知能)の進化など情報化・グローバル化が急激に進展する不透明な時代を、たくましく、しなやかに生きていく人材を育てるためには、学校教育を進化させていくことが必要です。>

 いまさら「AI(人工知能)」だの「グローバル化」だのを持ち出すセンスはさておき、問題は「人材を育てる」というフレーズである。“材”と呼ぶからには、それは何かの役にたつもの、目的を達成する道具となるべきもの、といった意味が込められている。昨今では、そうした確固たる目的を持った教育が歓迎されるようだ。

 しかし、そもそも教育など、何の役にも立たないと断言した人物がいる。かの哲学者、フリードリヒ・ニーチェである。

◆「学問によって身を立てる」という考えの愚

 昨年、英訳刊行されたニーチェの『ANTI-EDUCATION』(NEW YORK REVIEW BOOKS CLASSICS EDITED BY PAUL REITTER CHAD WELLMON)が海外で話題を呼んでいる(邦訳は無し)。

 これは、1872年にバーゼルで行われた全6回に渡る講演を記録したもの。当時のドイツにおける教育(教養・主にギムナジウムと大学)の問題点が、年老いた哲学者と弟子による対話形式から明らかになる。

 まずニーチェは、“教育によって身を立てる”、その考え自体が誤りなのだと断じる。

<生存競争を勝ち抜き、生きたいと願うのならば、多くを学ぶ必要があると言える。だが、そのような利己的な目的から得られるのは、本来の教育や文化とは全く関わりのないものばかりだ。>(筆者訳)

 もちろん、キャリアへの野心を一概に否定するのは難しい。しかし、それが教育の名の下に野放しにされている状態が問題なのだ。

◆教育を職業上の自己実現の動機付けにする弊害

 教育を職業上の自己実現に動機づけする弊害は、同様にジョルジュ・バタイユも指摘している。

<人間を襲う最大の害悪は、人間の実存を隷属的な器官の状態に貶める害悪だろう。ところが誰一人として、政治家、作家、学者になることは絶望的なことだと気づかない。気づかれることのない欠如を直すことは難しい。人間社会の役割の一つになるためだけに完全な人間になることを断念する人、こんな人を蝕んでいる完全性の欠如を直すのは難しい。>(『魔法使いの弟子』 景文館書店 訳・酒井健)

“就職に強いから”といった理由で学校や学科を選ぶのが当たり前になった現代。しかしそのためにすすんで専門性を狭めることは、

<何かの機械を作るのに必要な部品を作り続ける工場勤めの人生と同じで、究めたところで、“ネジだのハンドル作りだのの匠”と呼ばれるのが関の山だろう。>(筆者訳、以下同)とニーチェは斬り捨てている。

 こうしたニーチェやバタイユの議論は、理想論なのかもしれない。実際問題、職を得て生活を安定させたいのはいつの時代でも変わらないし、それ自体間違った考えではない。しかし、繰り返しになるが、その手助けを教育に求めるのがお門違いなのである。

 では、ニーチェの考える教育とは、一体どんなものなのだろうか。

◆ニーチェの語る「教育」の意義

 ニーチェの考える教育とは、ひとつは、過去の作家や芸術家の全的な偉大さに、“正しく”感じ入る心を育むことだという。

 他者とのせせこましい競争を超越して、自己の内面を鍛える修養。その前提となるトレーニングを施すのが、教育の役目だというのである。しかし、それは昨今流行りの“リベラルアーツ”なる呼称が与える自由なイメージとは全く異なる。

 ニーチェは、若い軍人が正式な歩行を習得する過程にたとえて、こう論じている。

<彼は脚の腱がちぎれてしまうのではないかと恐怖に襲われる。教えられた通り、決められた通りの型では自然に歩けないと絶望し、自らのぎこちない足の運びに衝撃すら受ける。そして最後には、適切な方法を学ばない限りは、ただ歩くことすらままならないのだと思い知る。>

 そうして訓練された言語をもってしてはじめて、芸術作品に触れる資格が与えられるというのだ。だがこのような話になると、“で、何の役に立つの?”とか、“それで収入アップするわけじゃないでしょ?”といった反応があがるだろう。

◆「目的ありき」の教育が生み出す歪み

 そこで、再び思い出してほしい。教育など、何の役にも立たないものなのだ。

 ニーチェは、無目的の理由をこのように誇る。

<我々はご高説を垂れたいわけでもなければ、何かを代表して意見を述べたいわけでもないし、達成したい目標があるわけでもない。将来など考えずに、いまこの瞬間もぐだぐだと怠けるだけの存在でありたいのだ。>

 これを傲慢なエリート主義と批判する向きもあるだろう。しかし、それでもここに私たちの抱える病が、逆説的に映し出されている。それは、“生産活動の役に立たないものはすべて無駄であり、捨ててもかまわない”と早とちりする、稚拙な合理主義だ。

 特に「人材」という言葉が当たり前のように使われる社会で、“使えない人間は排除されても仕方ない”との判断が理性的な選別だと称賛されるのは明白だ。

 およそ150年の時を経て『ANTI-EDUCATION』が訴えかけるのは、エリート主義の復活でもなければ、民族精神の復興でもない。目的が設定された教育こそが、人間同士モノのように扱い合う殺伐とした社会を生み出す。そんな現状に警鐘を鳴らしているのである。<文/石黒隆之>