中国を揺るがせた「天安門事件」から27年。国営メディアは事件について一切の報道を避けるなど、中国は国を挙げて歴史から抹消しようとしているかのように見える。写真は天安門。

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2016年6月4日、中国の民主化を叫ぶ学生らを人民解放軍が武力で鎮圧した「天安門事件」から、4日で27年。中国当局は事件の舞台となった北京中心部の天安門広場に例年のように厳戒態勢を敷く一方、国営メディアは事件について報道を避け、無視を決め込む。まるで国を挙げて歴史から抹消しようとしているかのようだ。

1989年4月、政治改革に積極的だった中国共産党の胡耀邦・元総書記が死去。学生らが胡氏をしのんで天安門広場に自然発生的に集まり始めた。天安門事件の発端だ。

当初は指導者もおらず、統制も取れていなかったが、次第に民主化を求める運動に発展。上海、南京などの他都市にも波及した。これに対し、中国指導部は「共産党の指導と社会主義体制に反対する運動」などと警告したが、趙紫陽共産党総書記ら学生たちに同情的な勢力も少なくなく、指導部には亀裂が走った。

このような状況で5月15日には、ソ連の国内改革を進めていたゴルバチョフ共産党書記長が中国を訪問。学生らはゴルバチョフ氏を「改革派」として歓迎した。19日には最高指導者のトウ小平氏が趙氏らの反対を押し切って北京に戒厳令を布告。6月に入ると、北京近郊に人民解放軍の部隊が集結した。

そして6月3日深夜から翌4日未明にかけて装甲車などを含む完全武装の部隊が天安門広場に突入、学生や市民に無差別に発砲して追い出した。武力鎮圧の様子は西側メディアによって世界中に中継され、中国には国際社会から非難が集中した。事件の犠牲者は中国当局の公式発表によると、319人。突入の時点で広場や周辺には10万人以上がいたとみられ、西側では少なくとも数千人との見方が有力だ。

27年前、広大な石畳の天安門広場や周辺の道路を群衆が埋め尽くした光景を、中国指導部は「動乱」と断じた。1960年6月、日米安保条約の改定に反対するデモ隊が国会を取り囲んだ際、岸信介首相は自信満々に「後楽園球場(現東京ドーム)では数万人の人が野球を楽しんでいる」と言い放った。

民主主義社会なら、混乱した事態を収めるために幾つかの政治的選択肢がある。事実、岸首相は安保条約の自然成立と引き換えに退陣した。しかし、一党独裁の下では一切の妥協は政権崩壊につながりかねず、中国指導部は体制を守る選択肢は「ほかにない」と判断し、鎮圧に踏み切った。日本メディアによると、中国外交部の華春瑩(ホア・チュンイン)報道官は3日、事件について「政府はすでに結論を出している」とだけ述べた。

1989年は振り返ると、歴史の節目の年だった。2月にはソ連がアフガニスタンから撤退。5月にはハンガリーがオーストリア国境の鉄条網を撤去して「鉄のカーテン」が破られた。11月には「ベルリンの壁」が壊され、12月には地中海のマルタ島で開かれた米ソ首脳会談で東西冷戦の終結が宣言された。

ポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアでも社会主義政権が崩壊。日本では昭和天皇が亡くなり、元号が「平成」に代わった。中国政府の思惑をよそに、天安門事件も歴史の一コマにしっかり刻み込まれている。(編集/日向)