『1979年の歌謡曲 (フィギュール彩)』スージー鈴木 彩流社

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 昨年10月に出版された『1979年の歌謡曲』(彩流社)は、1979(昭和54)年に発売された歌謡曲を、発売順で追って批評した一冊。1979年限定の楽曲批評という超ミクロな視点で同書を執筆したのは、会社員の傍ら、音楽評論と野球評論を続けているスージー鈴木さんです。


同書の目次を眺めるだけでも、山口百恵、ピンク・レディー、西城秀樹、ゴダイゴ、オフコース、サザンオールスターズ......など、1979年当時のヒットチャートを彩る豪華な顔触れが目を引きます。

昭和の歌謡史の中で燦然と輝く音楽シーンを生み出した1979年とは、どのような時代だったのか、著者のスージー鈴木さんにお話を伺いました。

*  *  *

――そもそも1979年とは、どんな時代だったのでしょうか?
インベーダーゲームが流行し、ウォークマンが発売され、世間では「ハイテク」という言葉が使われ始めました。80年に、(80年代アイドルの代名詞とも言える)松田聖子や田原俊彦が登場するわけですが、前年の79年はといえば......時代を席巻したピンク・レディーの人気は凋落傾向にあり、三浦友和との交際宣言をした山口百恵は、翌年の引退を見据えたラストスパートに入っていた、まさに「アイドル不遇」の時代でした。その一方、ゴダイゴやオフコースのようなニューミュージック勢が台頭し、すぐそこに怒涛の80年代の足音がひたひたと迫って来るような、大衆音楽のターニングポイントを迎えつつあった時代です。

――そんな79年の音楽シーンにおいて、鈴木さんが一番の象徴として挙げる人物はどなたでしょう?

「表」の主役はゴダイゴだと思いますが、「裏」の主役とでも言うべきなのが、作詞家・阿久悠の存在です。歌謡界の三大作詞家といえば阿久悠・松本隆・秋元康。今の若い人は、阿久悠の名前は知らなくても、尾崎紀世彦『また逢う日まで』、ピンク・レディー『UFO』、などのタイトルを聞けば「聞いたことある!」という方も多いのではないでしょうか。

――そうですね。

70年代の音楽シーンは、ほぼ阿久悠の独り勝ちでした。彼の歌詞の魅力はなんといってもその明瞭な物語性にある。尾崎紀世彦『また逢う日まで』を例に挙げると、――男女が別れて、住んでいる部屋を引き払って旅立っていく――まるで映画の1シーンのように、一曲の中にストーリー性が詰め込まれているのが彼の作詞の特色です。

だけど、それが79年に入ると、ちょっと息切れして「勤続疲労」したかのような様相を呈します。これは憶測の域を出ませんが、僕は、彼の不調の要因の一つに、「サザンオールスターズ」の出現があるのではないかと考えています。

――サザンオールスターズの登場に衝撃を受けたと?

前年の78年にサザンオールスターズが、『勝手にシンドバッド』という曲でデビューしているんですね。これは、阿久悠の手がけた2つのヒット曲――沢田研二『勝手にしやがれ』という77年のレコード大賞を取った曲と、77年のピンク・レディー『渚のシンドバッド』という曲――を無意味につなげたものでした。『勝手にシンドバッド』なんて何のことやらわからないタイトルですが、当時の人にとっては「阿久悠作品のパロディだな」とピンと来るものでした。

この時、桑田佳祐は22歳。42歳の阿久悠にしてみれば、海の物とも山の物ともしれない若者が、まったく新しい感性で自分の曲を換骨奪胎してデビューしたことは、自分のキャリアを揺るがしかねないような、大きな脅威だったはずです。実際に、79年8月から突然、数カ月間作詞活動を休んでしまう「休筆宣言」に入ります。

――当時の歌謡界の"権威"であった阿久悠を、ある種「煽り(あおり)」つつ、それでいて若者はサザンの「新しさ」に熱狂したわけですよね。一連の流れからすると、阿久悠の時代が終わったような印象も受けますが......。

いやいや、なんの。ここからが阿久悠のしぶといところで、彼は不死鳥のように復活を果たすんですよ(笑)。休筆直前に、八代亜紀『舟歌』という超名曲を発売し、翌年80年には、同じく八代亜紀で『雨の慕情』でレコード大賞を受賞、80年代に入ってからは、小林旭『熱き心に』(85年)、河島英五『時代おくれ』(86年)などの名曲を世に送り出します。

これら80年代に書いた曲は、今でもカラオケで愛唱する人が多い名曲で、時を経ても歌い継がれるような"スタンダード"です。彼は、自身の過去の栄光と"決別"し、若者に媚を売るのではなく、あえてオヤジ向けの詞を書いて、オヤジ世代の心を掴むことで復活したんです。

――79年と言えば、はじめに言われたようにインベーダーゲームの流行がありましたが、そういった娯楽の多様化が、レコードが売れなくなった要因、ひいては歌謡曲の衰退に影響している面もありますか?

それも一つの要因だと思いますが、僕は「お茶の間」が失われた影響が大きいと見ています。そもそも、歌謡曲というジャンルが成立するには、お茶の間のテレビを囲んで『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』のような歌番組を、家族全員で固唾をのんで見守るような習慣が背景にありました。ところが80年代以降になると、それぞれが個室の小さいテレビで見るようになり、聞きたい音楽はウォークマンで聞くようになり、老若男女が世代を問わず口ずさめる曲、というものがなくなっていったんです。

――著書では、歌謡曲の衰退には、当時台頭してきた「ニューミュージック」の潮流があるとも述べています。

"一億人を相手にして売ってやろう"という意識が強い歌謡曲に対し、そのアンチとして、若者から絶大な支持を得ていたのが「ニューミュージック」と呼ばれるジャンルです。売ってやろうという野心よりも、自分たちの音楽性を表現することを重視した音楽です。

たとえば、阿久悠の作詞で、沢田研二『OH!ギャル』という曲がありますが、これが歌謡曲の代表なら、財津和夫の作詞作曲でヒットしたチューリップ『虹とスニーカーの頃』のような音楽がニューミュージックの象徴と言えるでしょう。

歌謡曲とニューミュージック、相反するジャンルが、同じ力でぶつかったのが79年という時代、いわば「ニューミュージックと歌謡曲の一年戦争」と言える時代でした。やがて両者は融合していって、84年に発表された安全地帯『ワインレッドの心』に代表されるような、歌謡曲とニューミュージックの両方の特性を持つ音楽が生まれ、それがゆくゆくは90年代の「J-POP」になっていきます。だから、79年は、80年代に熟成されるJ-POPの"萌芽"が見えて来た時代。奇想天外で、非常に混沌として摩訶不思議な時代、だからこそ魅力的な音楽シーンと言えるんです。この本は、そんな魅力的な1年をギュッと恐縮した一冊となっています。

<プロフィール>
スージー鈴木(すーじーすずき)
音楽評論家・野球評論家、早稲田大学講師。著書に『【F】を3本の弦で弾くギター超カンタン奏法〜シンプルなコードフォームから始めるスージーメソッド』(彩流社刊)など。現在、野球専門誌『ベースボールマガジン』にて「不定期連載・スージー鈴木のROCK & BALL物語」を、『水道橋博士のメルマ旬報』にて「1984年の歌謡曲」を好評連載中。