バルセロナがスペイン国内のカップ戦(コパ・デル・レイ=国王杯)決勝でセビーリャを倒し優勝した。バルサは国内リーグをも制しているので“2冠”を達成したことになる。

 そのライバル、レアル・マドリーの冠数は目下ゼロ。今週末に行われるチャンピオンズリーグ決勝(ミラノ)に勝利すれば一冠。敗れれば無冠。いずれにせよ、冠数でマドリーがバルサを下回ることは確実になった。
 
 この何冠という言い回し。欧州のシーズン終盤に、ネットで記事を閲覧していると頻繁に登場する。スペインに限った話ではない。各国リーグにまつわる話題の中に必ずと言っていいほど登場する。冠はいわばタイトル。その獲得数は、チームの成功、不成功を語る上で外せない要素だ。
 
 しかし、国王杯とCLとは、同じ土俵に並ぶイベントではない。県大会と全国大会以上の差だ。スーパーカップ(前シーズンのリーグ戦の勝者とカップ戦の勝者の対戦)のような、シーズン前に行われるお祭り的なイベントまで冠に加えれば、差はもっと開く。すべて併せれば5冠、最大6冠くらいまで膨れあがる場合もある。それとともにCLの価値は薄まっていく。欧州リーグ(EL)もしかりだ。
 
 一方、日本には、冠の数をベースに議論し合う文化や習慣はあまりない。冠話のニュースの発信源は現地になる。そこで交わされている、些細なこだわり、痴話げんかの類が、ニュースとしてそのまま日本に流れてきている感じだ。現地で聞かされるなら抵抗はない。むしろ歓迎すべき、現地ならではの匂いになる。旅情に近いものを感じるが、日本でそれを聞かされると話は別。そのニュースをそのまま垂れ流している日本のメディアに、不信感を覚えずにはいられない。
 
 日本人は現地人ではない。現地人と我々とでは立ち位置が違う。日本在住者に話を分かりやすく伝えようとすれば、ニュースの伝え手にはこだわりが不可欠。現地情報を日本側で整理する作業が必要になる。実際、欧州発のニュースは連日、日本に無数到着する。だが、一般的な日本人の読者が目にするニュースはその中のごく一部だ。読者が目にすることができなかったニュースは、その数より圧倒的に多い。
 
 一応、何者かにセレクトされたニュースを一般の読者は見せられているわけだ。つまり、伝え手には、セレクトする才能、センスが問われているのだが、冠話にそれを感じることはできない。フィルターを通過せず、素のまま垂れ流されているニュースを見ている気になる。
 
 視点が局所的。欧州的では全くない。世界的でももちろんない。欧州サッカーを俯瞰する感じにまるで欠けるオタク同士の会話を聞かされているようで、居心地はとても悪い。
 
 欧州サッカーとどの距離で向き合えば、その世界観は伝わるか。基本的なことだが、報道に携わるものに問われるのは、取材対象との距離感だ。それこそが生命線。そこを間違えるのは、伝え手として思い切り格好悪い。真相も浮き彫りにならない。欧州サッカーで言えば、欧州組の活動を伝える報道がそれに該当する。局所的情報過多。近づきすぎだ。よって彼らの現在地、正当な評価は逆に見えてこない。量の割に不鮮明。
 
 一方、中継しているテレビ局は、欧州サッカーの報道量がこれほど増えたと言うのに、東京のスタジオで実況、解説を入れ込むオフチューブ型が目立つ。来月10日、フランスで開幕するユーロ2016も、現地ナマだったこれまでとは一転、残念なことに東京発のオフチューブになるという。

 だとすれば、ニュースをセレクトするセンスと才能が、これまで以上に求められることになる。

 サッカーは野球など他のスポーツに比べ、複雑な構造をしている。代表サッカーとクラブサッカー。国対抗もあれば都市対抗もある。クラブ対抗には各国リーグのみならずCL、ELがある。こちらは本来、日本に馴染みのない文化だ。

 視点も様々だ。立ち位置次第で、見えてくる世界は変わる。そうした取材対象と、どの角度で向き合うか。どの距離で接するか。

 存在するのは番記者的発想ばかり。ドメスティックな競技はそれで済むかも知れないが、サッカーのコンセプトとの相性は好ましくない。

 そして、そうこうしているうちにW杯本番を迎える。こちらは現地ナマ。ほぼ唯一の現地ナマ中継がW杯。世界の真実が伝えられぬまま、ファンは本番を迎えることになる。これでは勝ちそうなムードはしない。

 プレイしている選手より、世界との差を痛感する。ネット社会になり、情報化社会は劇的に促進したというのに、サッカーそのものに詳しくなれずにいる日本人。的確な情報を提供できていない伝え手の責任は大きい。このノリでは勝てない。世界との意識の差は詰まらない。シーズン終盤、またも冠話を聞かされると、力は途端に抜けてしまうのだ。