自身が制御できることと、そうではないことを峻別(しゅんべつ)し、コントロール可能な事象のみに集中するのが優れたアスリートに共通したメンタリティ、とはよく聞く話だ。

 錦織圭も、己の力が及ばぬ世界について無駄に悩んだり、心配したりすることを好まない。過去の出来事にとらわれて、あれこれ思い出を巡らせることもない。

 5月22日に開幕した、全仏オープン初戦の錦織対シモーネ・ボレッリ(イタリア)。

 このふたりの顔合わせで多くのテニスファンや関係者が思い出すのは、2年前のウインブルドンで、3日間にわたり繰り広げられた接戦だ。2014年、ウインブルドン3回戦。土曜日に行なわれた錦織とボレッリの一戦は、ファイナルセットのゲームカウント3−3になった時点で、日没のために中断。悪いことに、ウインブルドン大会中の日曜日"ミドルサンデー"は、試合を行なわない決まりだ。そのため試合は、終盤も終盤に差し掛かったまま、40時間近くも宙ぶらりんとなる。

「こんな経験は初めてだったので、メンタルがとても疲れた。夢にも出てきて、3−3の場面から2ゲームやっていました」

 勝利後にそう告白するほどに、このときのボレッリとの一戦は、錦織のキャリアのなかでも特異な経験であった。

 あれから2年の歳月を経て、場所をロンドンからパリに移し実現した今回の再戦は、またしても日をまたぐ展開となる。第1セットは、錦織が、「攻撃的で、ボールを左右に打ち分けられた」と自画自賛のプレーで圧倒。しかし、第2セットに入ると、実力者のボレッリが得意のフォアで反撃に出る。さらには、パラパラと落ち始めた雨が時おり思い出したように威力を増し、その度に落ち着きを失う客席からは、一斉に「バッ」と音を立て傘の花が咲き乱れた。

「あんな雨のなかで試合をやったことは、思い出せない。ボールは重くなるし、目に雨は入るし......」

 集中力の維持、変化する環境、そして調子を上げてきた相手のプレー。

 さまざまな適応が求められるなか、試合は第2セットの4−4で一度中断。約2時間40分後に再開されるも、錦織が第2セットを取り、第3セット2−1となった場面で、ふたたび試合は中断へ。そのまま再開の目処は立たぬまま、結局、残りは翌日に繰り越されることとなる。

「どちらかというと、2セットダウンしている相手のほうが頭をリセットできるだろうし、中断は嬉しいだろうな」

 そんなことも感じながら、彼は、雨にぬかるむセンターコートを後にした。

 翌日戻ってきたローランギャロスのセンターコートは、雨は上がったが風が強く、気温は前日に輪をかけて低い。立ち上がりは「硬くなった」うえに、「風もすごくあって難しいコンディション」だったこともあり、錦織にミスが目立った。ややボレッリペースで迎えた第7サービスゲームでは、錦織のダブルフォールトもあり、相手にブレークチャンスを許す。それでもこの窮地を切り抜けると、その後は両翼から放つウイナーで自らリズムを作り、3ゲーム連取で一気に勝利へと駆け進んだ。

 試合が翌日順延となったとき、周囲は2年前のロンドンと今のパリを重ね合わせ、その精神的な影響なども危惧した。実際に試合後の会見では、「ボレッリというと、ウインブルドンでの3日がかりの試合が思い出されますが?」との質問が勝者に向けられる。

 果たして返ってきたのは、頭に疑問符を浮かべた錦織の、「はぁ......」という、どこか気の抜けた声。

「まったく覚えてないです」

 やや照れた笑いを浮かべつつ、彼は悪びれるふうもなく認めた。

 2年前に起きた3日がかりの試合は、錦織にとっては、とうの昔に自分の制御下を離れた過去だ。そんなことに、心を砕く必要などない。

「彼(ボレッリ)のフォアハンドには、注意しないと。軽く浅いボールがいくと、簡単に叩かれてしまう」

 それが、錦織がセンターコートから持ち帰り、心にとどめ、翌日にコートへと持ち帰った想いだったのだ。

 ちなみにこのボレッリ戦の勝利は、"グランドスラム通算50勝"という、ひとつのマイルストーンでもあった。だが、そのことに関して意見を求められても、「特に、なんにも思い浮かばないですね。もうちょっと増やせるように頑張ります」と応じるのみ。

 そう......錦織圭というアスリートは、目標地点に区切りを設けたり、遠く先を見て、そこまでの道程を逆算するタイプではない。純粋に「世界チャンピオン」を夢見ていた少年時代ですら、彼は「ちょっとずつ、目の前のゴールをクリアしようとしていた」のだと言った。今日よりも明日の自分が前進していれば、いずれは遥か遠くへと行ける――。そう信じて、彼は常に今を戦ってきた。

 そんな錦織のスタンスは、ドローの全体像を知ることなく、「次の対戦相手しか見ない」という現在の姿勢にもつながっている。

「今大会もドローは見ていないんですか? 先々の対戦相手については、言わないほうが良いですか?」

 会見で問われた錦織は、笑顔で即答する。

「はい、お願いします」

 ならば我々も、次の試合のみに集中しよう。

 2回戦の相手は、世界ランク40位のアンドレイ・クズネツォフ(ロシア)。昨年末、ドイツのアカデミーに身を置き充実のオフシーズンを過ごしたことで、今季は潜在能力が開花した、元ウインブルドン・ジュニア優勝者である。

 そのクズネツォフの台頭に錦織も注目していたのか、「彼の試合は、最近ちょこちょこ見る」のだと言った。

「徐々に強くなっているな、という印象がけっこうあったので。危険な選手なのは間違いないですね。フラットで打ち、バックもダウンザライン(ストレート)にけっこう綺麗に打ってくる」

 難しい試合になりそうな気はしています......そう彼は、気を引き締めた。

 どの選手が勝ち上がっていくかなどは、己の制御下にはない事象。だから彼は、そんなことには頓着(とんちゃく)しない。代わりに、近い将来対戦する可能性のある選手をチェックし、試合を見て、来たる対戦に備え分析する――。

 自身が制御できる事象に対しては、細心の注意と最大限の敬意を払い、錦織圭は、次の一歩を踏み出す。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki