『大きな鳥にさらわれないよう』川上 弘美 講談社

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 その町ではひとは工場でつくられる。食料も工場でつくる。食料とはひと以外の、動物や植物だ。夫は工場で働き、妻は子どもを育てる。わたしはいままでに二回結婚して、ゆうに五十人の子どもを育ててきた。そのうち名前を覚えているのは十五人ほどだが。

『大きな鳥にさらわれないよう』は連作のかたちで、人間がいまのようではなくなった未来を描いていく。五十人の子どもを育てたわたしのエピソードは、巻頭に収録され「形見」と題されている。

 わたしはもの知りの千明さんに「ひとはどこから来たの?」と尋ねてみる。それはわたしが生きている町の成りたちを問うているようでもあるが、もっと広く「わたしがここにいること」の不思議にふれるものだ。それは工場でつくられようが母から産まれようが同じだ。育てられ、つれあって、子どもを育て、そして死んでゆくだけのために生きているなんて、へんじゃないのかしら、とわたしは思う。しかし、千明さんは「でも、そういうものなのだから」と言う。「へんじゃないのかしら」と「そういうものなのだから」との往復は、あらゆる人生を通じて繰り返される。

 未来社会の成りたちについても気になるところだが、「形見」ではただ工場でつくられるひとはさまざまな動物由来(ひとつの種ごとに千人以上はつくられている)だと明かされるだけだ。人間由来のひとはこれまでに三人しかつくられていないという。もっとも、語り手であるわたしの興味は人類史ではなく、もっぱら妻と夫と子どもをめぐっている。物語はたんたんと綴られ、結婚も死別もとりたててドラマチックなことではない。もちろん、夫に「好きだ」と言われるとわたしは嬉しい。夫はこれまで四度結婚しているが、その四人のなかでわたしがいちばん好きだという。わたし自身も好きという気持ちはあり、夫が亡くなれば大きな喪失感を覚える。しかし、それを語る言葉に感情は乗らない。この小説を読んでいると、うっすらと離人症めいた印象すら受ける。ぼくたちはふつう情動がひとの内から外へと溢れでるように思っているが、ここではそれが世界に漂っているようなのだ。

「みずうみ」と題されたエピソードに、次のようなくだりがある。エピソードごとに語り手はかわるので、このなかのあたしは「形見」のわたしとは別人物だ。

 人を好きになるのは、似ているところと似ていないところの両方があるからだ。
 そう、かあさんは言っていましたが、あたしはこの村の人たちは、みんなどことなく似たところがあると思っています。
 何よりも似ているのは、誰も人を憎まない、ということです。
「そもそも、憎むって、どういうことなの」
 あたしはかあさんに聞いてみました。
「相手が、この世界からいなくなってほしいと思うことよ」
 かあさんは答えました。
(略)
「かあさんは、誰かを憎んでいる人を見たことはある?」
「ないわ」
 かあさんは答えました。
「どんな感じのものなのかなあ、憎むっていうのは」
「わからない」

 ひとを好きになりはするが、憎むことのない世界! 通常の感覚ではちょっと想像がつかないのだが、おそらく、この語り手が感じる「好き」は、読者の日常にある「好き」と同じではないのだろう。重なる部分はあるけれど決定的に違うところがある。その違いが、ぼくたちが生きる世界をも照らしだす。また、「憎しみ」については別なエピソード「愛」であらためて前景化される。そちらでも「似ているところと似ていないところの両方がある」が焦点となる。しかも生物学的な見地が導入され、「人間は異なる者を受け入れることに抵抗を感じる生物」という指摘と、クローン発生(すなわち同質の反復)の限界とがいっぺんに語られるのだ。このあたりは文学的譬喩ではなく、ジャンルSFの要件をじゅうぶんに満たしている。

 ところで、「形見」の町ではひとは工場でつくられるが、「みずうみ」の村では母体から産まれる。婚姻制度はあるにはあるが、生殖はかならずしもその制度内に限定されておらず、子どもは三歳までは産んだ母親が育てるが、それ以降は父親と母親のあいだを行ったり来たり、自分がとどまりたいところにとどまることができる。いっぽう、「愛」の舞台となる研究所では、男女のまじわりでの生殖とクローン発生が両方おこなわれている。

 さらに「水仙」というエピソードでは、孤絶したコミュニティで、複数の私が母たちに育てられている。私のうちひとりは遠く南へ旅してたくさんのひとが住む町にたどりつく。それから数年後に別の私がやってきてふたりの同居がはじまり、やがて先にいた私がそこを去っていく。そのようにしてこれからも私は生まれつづけ、交代していくのだろう。

「緑の庭」と題されたエピソードでは、家族の単位が母と娘で構成されている。男は外からやってきてしばらく滞在してまた出ていく。家族に男が産まれることは稀で、男が産まれると母たちがどこかへ連れさってしまう。女は男を選ぶことはできない。子どもが産めるようになり、男がやってきたらまじわるしかないのだ。そして、子どもをじゅうぶんに産み、自分が産んだ子が男とまじわるくらいになると、もう男とまじわることはない。まじわりたいと思っても男が応じない。それはおそらく性的魅力とは別の、生態的にデザインされた社会システムなのだ。しかし、そうしたシステムとは別に愛の感情は芽生える。

 エピソードごとに家族のかたちが違い、性や婚姻の習慣(それどころか生殖のメカニズムも)異なり、それに付随する常識や感情も変わってくる。しかし、それでも誰かが誰かを好きになることだけはなくならない。それが連作をゆるやかに結びつけている。

 どうやらこの未来では別々の種族が個々の文化を形成しているらしい。人類全体----正確には「人類」とくくって良いかわからないのだが----として生命力が減退しているため、それぞれの種族が暮らす地域はあまり拡大することなく、互いに隔絶していてほとんど交流がない。そんな世界が成立するにいたった出発点を語るエピソードが「Remember」だ。人類の衰退がはじまったのは五千年以上前。そのとき、人類進化の予兆と目される特殊な能力を持った少年があらわれる。それを希望ととらえ、大胆な計画が企てられたのだ。驚くべきは、その記憶が五千年後も受けつがれていることだ。しかし、それもだんだんと薄れてきている。

 人類進化の計画については、さらに詳しく「運命」と題されたエピソードで語られる。そして、計画はこのとき飽和点に達してしまう。もともとの目的が果たせなかったという意味では失敗ともいえるし、新しい希望をつないだという意味では達成ともいえる。その先を語るのが、最後のエピソード「なぜなの、あたしのかみさま」だ。川上弘美はアーサー・C・クラークとも小松左京ともまったく違う、人類進化テーマの作品をつくりあげた。

(牧眞司)