黒柳徹子の半生を描くNHKの土曜ドラマ「トットてれび」(夜8時15分〜)。5月14日放送の第3話では、満島ひかり演じる黒柳ほか三木のり平(小松和重)、渥美清(中村獅童)、坂本九(錦戸亮)、クレージーキャッツ(我が家)などが出演したドラマ「若い季節」の生放送中にあいつぐアクシデントがコメディタッチで描かれた。


「トットてれび」には、黒柳たち行きつけの中華飯店の場面がたびたび登場する。店主の王さん(松重豊)はミーハーで、このあいだ俳優の森繁久彌(吉田鋼太郎)がうちの店に来たと黒柳らにしつこく自慢するのだが、てんで相手にしてもらえない。その様子をくすくす笑いながら眺めているのが、やはり常連客の向田邦子(ミムラ)である。黒柳たちの輪に入ろうとして入れてもらえない王さんと、輪に入らず傍観者に徹する向田はいかにも対照的だ。

店では何やらずっと原稿を書いている向田だが、そんな彼女に第3話の終盤、チャンスが訪れる。向田の書き損じの原稿をたまたま目にした森繁久彌が、自分のラジオ番組の台本を彼女に依頼してきたのだ。これこそ、のちにテレビで数々の名作ドラマを残すことになる向田邦子の脚本家としての第一歩であった。

森繁久彌とケンカに明け暮れた駆け出し時代


第3話の舞台となったのは1961年。この前年、1960年12月に向田邦子は勤めていた雄鶏社をやめ、フリーランスに転じている。この小さな出版社で向田は「映画ストーリー」という雑誌の編集部に在籍した。しかし本業のかたわら、会社には秘密で週刊誌の記事を書くなど内職にも励んだ。初めてテレビドラマの脚本を書いたのもそのころ、1958年のことだった。

当時、向田は「Zプロ」というシナリオライター集団の一員でもあった。映画雑誌の編集者ならば、映画をよく見ているから書けるだろうと、知人の新聞記者に紹介されて入ったのだ。このZプロで向田がまず携わったのが、本邦初の刑事ドラマとされる「ダイヤル110番」(日本テレビ)だった。自分の考えたシノプシス(あらすじ)に先輩の脚本家が肉づけするという形ではあったものの、向田は家族に放送されるのを見てほしいと事前に伝えたという(向田和子『向田邦子の青春』)。やはり自分の書いたものがテレビドラマになるのはうれしかったのだろう。このあと、向田は「ダイヤル110番」で2作立て続けに書き、翌年には1話分単独で執筆するまでになる。

しかし、向田はもともと推理物が得意ではなかった。後年にいたっても、TBSテレビのディレクターだった久世光彦が向田に時代劇の捕物帖を書いてもらったところ、話じたいは面白いのに、肝心の下手人が誰なのかわからず、当人に聞いても「私もわからないのよ」と言われたという話があるぐらいだ(佐怒賀三夫『向田邦子のかくれんぼ』)。デビュー作の「ダイヤル110番」もけっきょく不評で、テレビからいったん撤退、雑誌で仕事をしつつラジオに活動の場を移さざるをえなかった(小林竜雄『向田邦子ワールドの進化』)。

しかし、この“挫折”は向田に幸運な出会いをもたらすことになる。その相手こそ森繁久彌であった。

「トットてれび」では劇的に描かれていた森繁との出会いだが、実際のところはそこまでドラマチックではなかったらしい。向田がフリーになる前後に携わったラジオ番組のなかに森繁の「奥さまお手はそのまま」というコーナーがあった。森繁は何人かいたそのライターのうち唯一女性だった向田の脚本をもっとも評価し、新しい番組に推薦したのだ。それが1962年3月に始まったラジオ東京(現・TBS)の5分番組「森繁の重役読本」で、向田はこれをもって本格的に脚本家としてスタートする。

放送開始時、32歳だった向田に対して、森繁は48歳。人生の酸いも甘いも噛み分けた森繁相手に仕事をするのは一筋縄ではいかなかったようだ。アドリブを得意とする森繁だけに、台本に勝手に手を入れるのはしょっちゅうで、向田はそのたびに「書いたとおりにしゃべってください」とクレームをつけた。それでも「森繁の重役読本」は7年続き、1969年12月の最終回までじつに2448回を数えた。

この間、1964年にはやはり森繁の推薦で、向田は彼の主演するTBSテレビの「七人の孫」の脚本陣の一人に抜擢され、テレビドラマに再挑戦する。1970年には同作を引き継ぐ形で森繁主演の「だいこんの花」が始まり、当初は向田とべつの脚本家と交替執筆だったのが、第2部からは彼女の担当回数が増し、第3部以降は完全に単独脚本となった。しかし登場人物が個々に生気を発揮し、それぞれの対比の妙が生まれるまでには時間がかかり、森繁と向田はまたもやケンカを繰り返したという。

なかなか意見を譲らない向田に、森繁も森繁で自分のアイデアをむりやり押しつけた。向田としては、ホームドラマは筋があまりきわだって曲折しないほうがいいとの考えだったが、森繁には同じことを繰り返すのに抵抗があったらしい。それでも、向田の言い分を聞き入れるうちに、演じる家族同士に親しさが生まれ、芝居に取ってつけたようなウソがなくなってきたと、森繁は後年振り返っている(『向田邦子TV作品集』月報7)。

向田としても森繁にはおおいに鍛えられたと、次のように書いていた。

《どう転んでも、こっちは十分の一の人生経験もない。破れかぶれと背のびで、必死に食い下って十年余りのおつきあいになってしまった。(中略)思えば、さしたる才も欲もないズブの素人の私が、どうやら今日あるのは、フンドシかつぎがいきなり横綱の胸を借りて、ぶつかりげいこをつけてもらったおかげと有難くおもっている》(「余白の魅力―森繁久彌さんのこと―」、『森繁の重役読本』所収)

「だいこんの花」は1977年の第5部まで続き、これと並行して向田は「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などのホームドラマをヒットさせていく。森繁久彌はまぎれもなく脚本家・向田邦子の育ての親であった。

黒柳徹子に「早くおばあさんになって」と約束


脚本家・向田邦子の誕生にあたり、重要な役割を担った人物がもう一人いる。それは彼女が内職として週刊誌の仕事をしていたときに知り合った、平凡出版(現・マガジンハウス)の編集者・甘糟章だ。当時、芸能誌「週刊平凡」のデスクだった甘糟は、アンカーライター(取材データを記事にまとめる役)の向田に「ビジュアル(視覚的)な文章を書いてください」と注文したという。彼女いわく《このひとことは、そのあとのテレビドラマ、更に随筆、それから小説を書く上に大きな暗示になっています》(「モンロー・安保・スーダラ節」、『女の人差し指』所収)。

「トットてれび」の登場人物たちと向田邦子がかかわるようになるのは、第3話で描かれた時期よりもう少しあと、ラジオ番組の台本を書き始めてからのようだ。歌手の坂本九とは文化放送の「九ちゃんであンす」の構成作家としてかかわり、坂本が歌った「上を向いて歩こう」の作詞者で放送作家だった永六輔(ドラマでは新井浩文が演じていた)とも、やはりこのころからつきあい始めた。永は向田と会うたび「いつか役者として協力してね」と言われていたという(永六輔『昭和〜僕の芸能私史〜』)。

黒柳徹子も、タイトルは不明ながらTBSラジオの向田脚本の連続ドラマへの出演時に彼女と知り合った。黒柳は一時期、向田の住んでいた霞町(現在の西麻布三丁目)のアパートに毎日のように通い詰めるほど親しい仲となる。向田のテレビドラマに出ることはなかった黒柳だが、当人からは、あなたみたいなおばあさんが書きたいと、「早くおばあさんに、なってよ」とたびたび言われていたという(黒柳徹子『トットひとり』)。

独身女性の憧れの的となった向田邦子


向田が杉並区の実家を出て霞町のアパートに引っ越したのは1964年10月。その直前、彼女は恋人を亡くしていたことが、のちにあきらかとなっている。恋人のN氏には妻子があり、向田とは不倫の恋だった。二人の交わした手紙、遺された日記は、2002年に向田の末の妹・和子の手でまとめられ、『向田邦子の恋文』と題して出版、04年には山口智子主演でテレビドラマ化もされている。

向田はフリーになったとき、すでにN氏と交際していた。ひょっとすると出版社をやめるのを後押ししたのは、カメラマンであった彼だったのかもしれない。だが、そのN氏は亡くなる2年前に脳卒中で倒れ、足が不自由になってしまう。ちょうど向田が「森繁の重役読本」を手がけ始めたころだ。働けない彼の代わりに稼ぐため、彼女がますます仕事に没頭するようになったことは、遺された手紙からも察せられる。

恋人と死別した向田邦子は、その後だれとも結婚せず、恋愛や男について友人と話すこともほとんどなかったらしい。1977年、平凡出版から女性誌「クロワッサン」が創刊される。その創刊編集長は、向田が週刊誌のライターだったころの恩人・甘糟章だ。独身キャリアウーマンをターゲットとした同誌では、たびたび向田がとりあげられた。世の独身女性にとって、誌面で紹介される向田のシングルライフは憧れそのものであった。

向田は脚本家として成功を収め、さらに小説に手を染めると1980年には直木賞も受賞した。だが、絶頂にあった1981年8月、取材旅行中の台湾で飛行機事故に遭い、51歳で急逝する。いつか自分の書くテレビドラマに出てほしいと会うたびに彼女から言われていた永六輔も黒柳徹子も、その約束をついに果たすことができなかった。
(近藤正高)