ゲームメーカー・任天堂が出来るまで〜花札からファミコンまで(第2回)

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京都の一角に営まれる「花札屋」からスタートした任天堂が、どのような遍歴をたどって「世界のエンターテイメント企業」へと成長を遂げたのか。ファミコンを生み出した任天堂のDNAを探る連載の第二回目です。

任天堂のニューリーダー・若き日の山内溥氏



花札やトランプといったカード事業を流通を含めて拡大していった創業者・山内房次郎氏。それらを受けて、現在の任天堂の基礎を築き上げたのが、かつての同社の顔として鮮烈に記憶に残る山内溥氏です。



山内溥氏が生まれたのは1927年。山内房次郎の婿養子となった山内積良氏の孫であり、祖父母の元で育てられました。父が5歳の時に出奔したため、早くから跡取りと目されていたのです。

「花札屋のボン」と呼ばれてなに不自由なく暮らしていた溥氏が中学生の頃に、太平洋戦争が勃発。「なんとなく遊びたかったから」という理由で上京して早稲田大学法学部に進学し、戦後はまだ焼跡も生々しかった東京でビリヤードに熱中。祖父にもらった豪邸から大学に通い、月に数回はレストランでステーキやワインを楽しみ、花柳界でも知られた遊び人だったとか。「娯楽」のセンスが養われたのも、豪華な暮らしをしていた学生時代だったのでしょう。

転機が訪れたのは1949年。祖父の積良氏が病に倒れ、急きょ跡継ぎとなることに。大学を中退した博氏は、20代前半の若さで任天堂のトップに就任しました。

祖父の遺言を引き受けるにあたって、博氏は「任天堂で働く山内家の人間は、自分一人だけでいい」(後に緩めたようですが)と条件をつけました。実際、博氏が社長となったのは販売子会社だった「株式会社丸福」で、本来の母体だった「合名会社山内任天堂」は子会社の丸福かるた販売会社に全権を移譲しています。合名会社は身内による支配が強いため、干渉を排除したのでしょう。

株式会社丸福は社名を何回か変えた末に、51年に「任天堂骨牌(カルタ)」という名前に落ち着きます。この間、社内では博氏は若すぎたこともあり、古参の職人や社員ら100人以上がストライキを起こす事態に。博氏はこれに対してリストラを断行し、一方では京都の各地に散財していた工場を高松町にまとめました。手工業から脱した製造過程の近代化と指導力の地盤固めを同時に進めたわけです。

ディズニートランプによりユーザー人口を拡大


若くて経験のないリーダーにとって、何よりも必要とされるのは「実績」です。後年、部下の創意工夫を積極的に採用した山内溥氏は、自らもアイディアマンであり、国内の花札やカルタやトランプ事業に前例のない新風を次々と吹き込みました。

まず、1953年に日本で初のプラスティックのトランプを製造。はじめは高価だったこともあり伸び悩みましたが、紙と違って折れにくく、手の油がしみることもない。一度知ると後戻りできないメリットが徐々に認められ、高級品として売れに売れるようになりました。

さらに決定打となったのが、1959年に「ディズニートランプ」を発売したことです。ディズニーと正式に提携し、ミッキーマウスなどが印刷された製品を出すと、たちまち大ヒット。まだメディアミックスの芽生えもなかった時代に、キャラクタービジネスを先駆けた先見性です。若きリーダーの「実績」を前にして、労働争議も収まっていったとか。

ディズニー以上に任天堂の未来を方向づけたのは、おまけに同梱された「プレイガイド」でしょう。主なトランプゲームのルールや手品を解説した小冊子を付けたところ好評で、予想を上回る大ヒット。つまりトランプ="ハード"と遊び方="ソフト"をセットで売る、後のゲームビジネスの原点はここにあります。

この商品は、任天堂がテレビというメディアと関わるきっかけにもなりました。日本最初のテレビCMとされる精工舎の時報が流れたのは、1953年8月のこと。誕生して間もないテレビに、さっそくディズニートランプのCMを提供。さらにトランプを使ったマジック教室番組「マジックスクール」のスポンサーにもなり、後の『スーパーマリオクラブ』などゲーム番組の先例を作ったとも言えます。

ディズニートランプは、単なるヒット商品にとどまらず、任天堂という企業の性質さえ変える結果となりました。それまで賭け事に使われる後ろ暗さがあったトランプが、家族で安心して遊べる商品になり、市場が「賭場」から「一家団欒」へとステップアップしたのです。

こうした取り組みは、故・岩田聡さんの下での「ユーザー人口の拡大」への挑戦と重なります。ハードウェア(素材)を革新しつつ、マニア(大人)しか遊ばなくなっていた娯楽の枠組みを変革して、新たなユーザー層を取り込む。娯楽は、いつの時代も「閉塞と突破」を繰り返してきたのかもしれません。

そしてトランプにプレイガイドを同梱するスタイルは、「遊び」の商品化でもあります。国際的なディズニーのブランド力、全国に流れるテレビCMは、京都の「花札屋」が世界のエンターテイメント企業に飛躍する足がかりだったわけです。

多角経営の迷走から「娯楽」への原点回帰


山内溥氏にとって、おそらく「エンターテイメント企業」を強く意識するきっかけとなったのが1958年、アメリカに渡航した経験でしょう。

その主な目的は、世界最大手のトランプメーカーだったUSプレイングカード社の視察。さらなる飛躍を目指す上で、「世界」を知るための旅行だったのでしょう。

どんな広大な敷地が広がっているかと思えば、ただのこじんまりした社屋で、トランプ工場も手作業。トランプ市場の小ささを目の当たりにした山内氏は、トランプだけではちっぽけな会社のままだ−−と多角経営の道を歩み始めました。

それを「迷走」というのは容易いんですが、本業でもプラスティック製のトランプやディズニートランプの発売など、すでに獲得したシェアに満足していたら取らなかったであろう試みばかりです。祖父からの資産を受け継いだ山内溥氏が自らの事業を切り開き、真の「企業家」となるための試行錯誤だったのではないでしょうか。

1960年に設立したタクシー会社のダイヤ交通がその始まり。親戚にタクシー会社がいた偶然から立ち上げた事業ですが、ときは1964年に東京オリンピックを控えた4年前。実際にオリンピック開催でタクシーも大幅に増車されており、先見性のある投資だったといえます。

そして「これからはインスタント食品だ」ということで、61年には三近食品という子会社を設立しました。1950年代末にはインスタントラーメンを代表する名商品・チキンラーメンが開発され、うどん玉が6円の時代に35円もする商品が飛ぶように売れ、日清食品が急成長。スーパーマーケットも登場して大量に販売・流通するインフラも整っていった時期であり、目の付けどころは悪くありません。

「ポパイラーメン」や「ディズニーフリッカー」(ふりかけ)と発売していったなかで、決定打となる......はずだったのがインスタントライス。大学の研究室に無理を言って協力してもらい、お湯を注いで3分たってからお湯を捨てる焼きそばタイプというのも先進的でしたが、ドロドロでマズい。山内溥氏も試食して「食えたもんじゃない」ことを気にせずに発売すれば、やはり惨敗。

三近食品は65年に、ダイヤ交通は69年に撤退。いずれも先見性はあったが、技術やノウハウがなかった(タクシー事業は山内氏が運転手との交渉を面倒がったという説があります)ためです。

本業であるカード事業にも、やがて陰りが差し始めました。62年に株式を大阪証券取引所第二部と京都証券取引所に上場し、63年には「任天堂カルタ」から「任天堂」へと社名変更したまでは良かったのですが、64年には経営を支えていたトランプの売上がぱたっと止まったのです。トランプや花札も全国に一通り行き渡るとともに、飽きられたのでしょう。

一時は900円台まで上がった株価が急落し、60円台のどん底に。山内溥氏は「娯楽屋は天国か地獄、中間はない」という訓話をしたと伝えられていますが、任天堂はその後もこうした危機をたびたび迎えることになります。

1963年に本格販売をスタートした室内玩具、すなわち野球盤や室内で遊ぶおもちゃは、インスタント食品やタクシー事業と同じく多角経営の一つでありつつ、花札やトランプといった「娯楽」への原点回帰でもあったのでしょう。そこに任天堂の運命を「枯れた技術の水平思考」によって変える人物が現れ......。以下、次回に続きます。