マドリード・マスターズ準決勝で実現した今季3度目となるノバク・ジョコビッチ(セルビア)との対戦は、結果だけ見れば3−6、6−7で、今回も錦織圭の敗戦であった。しかし、試合後の会見での錦織の表情を見れば、その試合内容が、そして彼が感得した皮膚感覚が、過去数試合とは大きく異なることは明らかである。

 今年1月の全豪オープンで敗れたとき、錦織は、「頭のなかではやるべきことは明確にあるのですが、なかなか実行に移せなかった。チャンスが見い出せなかったので、ちょっと不甲斐ない......」とまつ毛を伏せた。約1ヶ月前のマイアミオープン決勝で敗れた際も、勝機や攻略法について問われると、「正直、見えてきたところが今日はないです」と、幾分混乱した表情で完敗を認めている。

 そして、これら2試合でいずれも口にしたのが、「少し焦りもあったろうし、もうちょっとじっくり攻めるべきだったのかも」「(攻撃的に)打たないほうがいいのか、打ったほうがいいのかわからなかった」という、戦法に対する迷い。そして、「一番崩すのが大変な選手」「どうしても長いラリーになってしまうなかで、少ないチャンスを見つけて打っていって、しかもそれが入らないといけないので......本当に崩すのは難しい」という、ジョコビッチの鉄壁の守備に対する、畏怖(いふ)にも似た感情であった。

 その錦織が、このマドリードでの試合後には、「そんなに焦り過ぎず、無駄なミスも少なかった」と、過去2試合とは正反対とも言える所感を口にした。

「今日は一番、彼との試合のなかで自分が充実したテニスをしていた」と、表情と言葉にたしかな手応えをにじませてもいる。その想いは、記者席でペンを走らせる者たちも共有した感覚だったのだろう。試合後の会見で最初の質問をしたスペイン人記者は、開口一番、「今日の試合、私たちはすごく楽しませてもらいました」と賛辞を述べたほどである。

 このように見る者をも魅了した、濃密なる1時間58分の試合にこそ、錦織が口にした充実感の根拠があるのは明白だ。

 日の長いマドリードの空にも茜色から濃紺のグラデーションがかかり、コート上空をひらひらと舞うコウモリが夜の訪れを告げるなか、始まった準決勝――。コイントスに勝利し、リターンゲームを選んだ錦織は、冷たい空気を切り裂くリターンで即座に主導権を握ると、鋭いスピンをかけたフォアの逆クロスを打ち込み、この試合最初のポイントを奪取。その後も狙い澄ましたドロップショット、さらにはふたたびフォアのウイナーを叩き込み、いきなり0−40と3つのブレークポイントを手にしたのだ。

 しかし、この場面でジョコビッチは、次々にセンターにエース級のサーブを決めて危機をしのぐ。ドロップショットや高く弾むスピンを操る錦織の創造性と、重要な局面でこそプレーの精度を高めるジョコビッチの強さの精髄が光る、幕開けであった。

 先行する好機を逃したものの、その後も錦織の攻勢は続く。左右にボールを打ち分け、機を見てトリガーを引くように全力でフォアをオープンコートに打ち込む。あるいは王者の平常心を揺さぶるように、ドロップショットをネット際にフワリと落とす。そのたびに、無敵の王者を翻弄する錦織に向けて、判官贔屓を好むスペインの観客から熱い声援が送られた。

 ただ、それでも試合の分岐点となる数ポイントを確実に掴み取ったのは、ジョコビッチのほうである。第1セットの第7ゲーム、完璧なドロップショットを沈めて自らを鼓舞したジョコビッチは、続く第8ゲームで錦織のドロップショットミスに付け込み、このゲームをブレーク。2本のドロップショットが命運を分け、第1セットをジョコビッチが奪取した。

 第2セットも、マドリードの週末の夜を彩るに相応しい、エンターテイメント性に満ちた攻防は続く。第1ゲームで面したブレークポイントを、17本の激しい攻防の末に錦織がフォアのウイナーでしのいだときは、この日最大の歓声がスタジアムを揺るがした。

 両者、力比べをするように足を止めたフォアの打ち合いを錦織が制したときにも、ファンは歓喜の声を上げた。そんな錦織のプレーに、王者は圧力を覚えただろうか? 第5ゲームをブレークし、勝利に大きく前進しながらも、ジョコビッチの表情は釈然としない。ポイントを奪うたびに客席に向かってガッツポーズを振りあげる王者の雄々しい姿は、逆に彼の焦燥を浮かび上がらせるようでもあった。

 ジョコビッチのなかに集積された焦りや不安が突如として溢れ出たのが、自らのサービスゲームで3本連続のマッチポイントを握った場面だろう。フォアのミス、そしてダブルフォルトを重ねた末に、ジョコビッチはこの試合初のブレークを、なかば手渡すような形で許す。

「どんなに多くの経験を積んでいても、時にこのようなことは起きてしまうものだ。特に圭のように、とても才能豊かで、攻撃的であり、少ないチャンスに飛びつき、モノにするような選手が相手のときには......」

 一見、"凡ミス"に見える失速の正体を、のちにジョコビッチはそう明かす。「圭は腕を楽に振り抜き、どんどん攻撃的になっていた」との思いが、王者をナーバスにさせていた。

 ただ、もつれた終盤戦において、勝敗を分けたのは最初のゲームと同様に、サーブである。第12ゲームからタイブレークにかけ、ジョコビッチは10本連続でファーストサーブを入れている。この試合、ファーストサーブが入ったときのジョコビッチのポイント獲得率は73%。

「第1セットも、第2セットも、ひとつのゲームで数ポイントの差だったと思う」

 錦織が挙げた「両者を隔てる差」は、もっとも重要な局面であるタイブレークで顕在化した。

「すごくチャンスがあったので、もったいないというか、悔しい気持ちもあります」

 試合後の錦織は、敗戦の苦みを噛みしめていた。"悔しさ"とは、自信とコインの表・裏――。その目に光が差すワケは、「まだ2セットで負けているので差はあるが、だいぶ近づいている気はしました」という手応えにあるだろう。わけても大きいのは、過去に錦織を悩ませてきた「早く攻めるべきか、じっくり行くべきか」の命題に、ひとつの答えを見つけたこと。

「どんどん打って無理していくことは、リスクが高い。この跳ねるサーフェスはスピンで打っても決まる場合があるので、今日はじっくりプレーしようと思って試合に入りました」

 クレーというコートの特性に依拠する部分もあるだろうが、高さを用いて3次元的に構築する打ち合いにこそ、錦織は「ジョコビッチ攻略のカギ」を見い出していた。

 その事実は、ラリーの長さとポイント取得率に、何より顕著に表れる。この試合、1〜4本の短いラリー戦でのポイント獲得は、ジョコビッチが51対33で圧倒していた。だが、5〜9本の打ち合いになると、25対22本で錦織がリード。10本以上の長いラリー戦でも、15対11で錦織が支配したのだ。

「近づいた気がする」という希望に彩られた予感は、ふたたび戦い、手にした攻略のカギで扉を開けることで、ようやく確信に変わるはず。幸運なことに......と言うべきだろうか、テニスは、毎週のように大会がある。錦織も、そして最終的にマドリード・マスターズを制したジョコビッチも、すでに次の戦地であるローマに足を踏み入れた。

"次"の機会は、常にすぐそこにある――。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki