バルサでバロンドールを受賞したものの、スアレスの全盛期はインテル時代だった。 (C) Getty Images

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◇ルイス・スアレス:1935年5月2日生まれ スペイン・ラコルーニャ出身
 
 ルイス・スアレスといっても、現在、バルセロナで活躍するあのウルグアイ人ストライカーのことではない。
 
 ルイス・スアレス・ミラモンテス。スペイン・サッカー史に残る優れた攻撃プレーヤーであり、50〜60年代にはチームとして、個人として、数々のタイトルを手にしている。スペイン人初のバロンドール受賞者といえば、その偉大さがより分かりやすいだろう。
 
 とはいえ、こちらのスアレスも、バルサとは深い縁がある。53年にデビューを飾ったチームはデポルティボだったが、翌年にはバルサに移籍。最初のシーズンはレンタルに出されたものの、その後は主力としてプレーし、61年夏まで在籍した。
 
 創造性溢れるエレガントなプレーから「建築家」というニックネームをつけられたスアレスは、チャンスメイクだけでなく、得点力も高い“クラック(天才)”であり、どんな難しいプレーも簡単そうにこなした。
 
 調子の良い時の彼は、ラディスラオ・クバラ、サンドール・コチシュ、ゾルタン・チボールといったチームメイトの名手にも引けを取らないプレーを見せたが、一方でこの偉大な先輩たちとの比較が若いスアレスを苦しめ、安定感に欠けるという一面もさらけ出した。
 
 それでもレギュラーとして重要な役割を担い続けた彼は、58-59、59-60シーズンと連続してリーグ優勝に大貢献。当時は宿敵レアル・マドリーが欧州の舞台でも快進撃を続けていた時代であり、この連覇はまさに偉業として称えられた。
 
 スアレスはこれにより、60年の欧州最優秀選手としてバロンドールを受賞。フェレンツ・プスカシュ、ウーベ・ゼーラーら名選手を抑えての戴冠だった。
 
 しかし、バルサの英雄は61年、このクラブに別れを告げる。行き先はイタリア。前年よりインテルを率いていた名将エレニオ・エレーラ――前述のバルサのリーグ連覇は彼の采配によるものだ――が、スアレスの獲得を強く希望したのだ。
 
 もっとも、この移籍劇の背景には、カンプ・ノウ(57年完成)建設で莫大に膨らんだ借金の返済に苦しんでいたバルサの深刻な財政事情があった。高額の移籍金を目当てに、26歳と旬なクラックの放出を決断したのである。
 こうしてインテルの一員となったスアレスは、ここでキャリアのピークを迎える。“カテナッチョ”と呼ばれる堅固な守備網を敷いたチームにおいて、彼は攻撃の指揮者として君臨し、歴史に残る「グランデ・インテル」の創生に大きな貢献を果たした。
 
 2シーズン目に最初のスクデットを獲得すると、翌シーズンにはチャンピオンズ・カップ(現リーグ)に優勝。同年にはインターコンチネンタル・カップも制して世界一にまで昇り詰めた。しかもインテルはそれを、2年連続で成し遂げる。
 
 国内でも64-65、65-66シーズンとリーグ連覇を果たしたインテルは、まさに無敵のチームであり、このチームの戦術はトレンドとして、イタリア全土に広まっていった。
 
 インテルで黄金時代を謳歌していた彼はこの時期、スペイン代表としても大きな勲章を手に入れる。
 
 初めて出場したメジャーイベント、62年チリ・ワールドカップはグループリール敗退に終わったものの、2年後のヨーロッパネーションズ・カップ(現欧州選手権)では、サンチャゴ・ベルナベウでのソ連との決勝を制し、初の代表タイトルを母国にもたらした。
 
 スアレスはこの大会、準決勝(ハンガリー戦)、決勝ともに、味方のゴールを演出するなど大活躍を見せ、大会ベストイレブンにも選出されている。
 
 こうして、ワールドカップを除けば、その他の全てのタイトルを獲り尽くしたスアレスはインテルに70年夏まで在籍し、73年にサンプドリアでユニホームを脱いだ。
 
 引退後はインテルやデポルティボなど、イタリア、スペインの複数クラブの監督を歴任し、80年には母国のU-21代表、そして88年からはA代表を率い、90年イタリアW杯でも指揮を執った(ベスト16)。そして監督としてのキャリアの最後は、インテルで迎えた。
 
 インテルを世界一に導き、自身も大いに輝いた偉大なるスペイン人、スアレス。監督だけでなく、フロントとしても長くインテルに貢献した彼だが、不思議なことにこのクラブとスペイン人選手の縁はあまり深くない。
 
 過去を振り返っても、スアレス以外では、彼とともに戦ったホアキン・ペイロ(64〜66年)、在籍期間は怪我に苦しんだフランシスコ・ファリーノス(2000-03)、そして今シーズンから加入して出番に恵まれず、冬にベティスに新天地を求めたマルティン・モントーヤぐらいである。