史上最大級の知名度を誇るボクサー、モハメド・アリ。その戦歴を語る上で欠かせないのが、1974年にアフリカのザイール(現コンゴ民主共和国)で行われたジョージ・フォアマン戦だ。いわゆる“キンシャサの奇跡”である。戦前の下馬評では圧倒的にフォアマンの有利。アリは“すでに峠を越した過去の選手”と目されていた。
 ベトナム戦争における徴兵拒否により、WBA・WBC統一世界ヘビー級王座を剥奪されたアリ。3年7カ月のブランクを経て復帰を果たし、'71年にWBC王者のジョー・フレジャーに挑戦するも、15Rにダウンを奪われ判定負け。プロ入り後、初の敗戦を喫すると、続く'73年にもケン・ノートンに顎を砕かれ、判定で敗れている。
 一方のフォアマンは、そのアリを破った両者をいずれも2RKOに葬っていた。誰よりもハードなパンチを武器とするニュースター。190センチを越える長身に分厚い胸板、張り詰めて光を放つ肌は、まるで古代の彫像が現代に蘇ったかのごとし。
 このときまでプロ40戦全勝のうち37KOと、歴代で最も高いKO率を誇っていた。アリとて当時はまだ32歳、決してオールドタイマーというわけではなかったが、それでもフォアマンの勝利は揺るぎないというのが、衆目の一致するところであった。

 ただ一点、アリにとって有利と言えたのが、現地民衆の声だった。長年にわたって黒人差別の撤廃を訴えてきたアリは、ベルギーによる植民地支配の時代を知るザイール国民にとって、まさに希望の星であった。
 だが、一方のフォアマンは同じ黒人でありながら、入国時に旧宗主国の警察犬だったシェパードを連れてきたこともあり、“白人の手先”と非難の的となってしまう。さらに、フォアマンの練習中のケガで試合が延期されると、帰国しての治療を望んだものの“試合拒絶の逃亡”と見なされ、出国禁止の軟禁状態に置かれることにもなった。
 「アメリカでのテレビ放映に合わせるために、試合開始が午前3時半と異例の時間に設定されたことも、黒人軽視の表れだと反発の声が上がり、その一方でアリの人気は高まるばかり。“アリ! ボマイエ!(現地リンガラ語でアリ! 殺っちまえ!)”は国民的流行語になりました」(ボクシング記者)
 ちなみに、このときのボマイエが後に“猪木ボンバイエ”となり、また、この春にWWEへ移籍した中邑真輔の新日時代の必殺技の語源ともなっている。

 地元民衆の大歓声がアリに注がれる中、試合開始のゴングが鳴る。
 1R、圧力をかけるように前進するフォアマンを、脚を使って牽制のジャブを放ちながらいなしていくアリ。ここまでは想定された展開だったが、続く2Rから様相が異なってくる。
 持ち前の剛腕を惜しみなく振るうフォアマンに対し、アリはロープを背負って防戦一方。しかしながら、アリにダメージは見られない。
 「ロープにもたれるようにしてパンチの威力を逃すのと同時に、相手の体力を削っていく。のちに“ロープアドープ”と呼ばれる高等戦術。この試合の前、フォアマンとノートンの試合を観戦したアリは、『序盤を乗り切ればノートンが勝っていた』と予言めいたコメントを残しており、それをこの戦略により実現させたのです」(同)

 ロープにもたれてのけ反りながら、フォアマンの剛打をことごとく受け流していくアリ。フォアマンが疲れてきたと見れば様子見のジャブを放ち、まだ元気ならば、あらためて自らロープを背負って防御に徹する。
 6Rあたりからは明らかにフォアマンの疲労が濃くなり、動きが止まることもしばしばだったが、アリは慎重に同様の展開を繰り返した。
 そうして8Rも残り20秒となったとき、アリの下がりながらのワンツーでフォアマンがグラつくと、ついに仕上げにかかる。これまでの守勢から一転して連打を浴びせかけ、フォアマンをマットに這わせたのだった。

 アリに奇跡の勝利をもたらせたロープアドープ。しかし、ダメージが少ないとはいえ常に被弾するには違いなく、以後、この戦法を多用したことがパーキンソン病発症の一因になったとも言われている。
 “蝶のように舞い蜂のように刺す”と呼ばれた動きを取り戻せないでいたアリにとって、まさしく命懸けの闘いだったのだ。