『彼女に関する十二章』中島 京子 中央公論新社

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 伊藤整。中学高校の教材「国語便覧」で目にした記憶がある。というか、その程度の知識しかない。主人公・宇藤聖子の夫・守によれば、伊藤整の著書である『女性に関する十二章』は1954年のベストセラーだったのだそうだ(同年のトップテンには、同じ著者の『火の鳥』もランクインしている)。守曰く、「いまさあ、大騒ぎしてるだろう、ランキングがどうした、ナントカ大賞がどうしたなんて。六十年してみろ。残ってるのなんか、ないぜ、きっと」。ところがこれが百年となると話が違うと言って守は『坊っちゃん』に賛辞を送るのだが、聖子は「たったいま、夫は自分の口で、六十年前に愛されたからといって六十年読み継がれはしないのだと言ったばかりではないか。『これが百年となると違う』とはどういう意味か。日本文学はきっちり百年ごとに傑作を生むとでもいうのか」と心の中で冷静なツッコミを入れているのが笑える。

 聖子は50歳。子育て中しばらくは専業主婦で、勉の中学入学後は知り合いの税理士事務所で週3程度のアルバイトをしている。大学の同級生だった守は、零細編集プロダクションで企業のPR誌などを請け負う傍ら、ペンネームで雑文業を営む。大学で哲学を専攻していたひとり息子の勉は、関西の大学院に進んだばかり。勉が成人式を迎えた年から聖子と守は、お互いを「パパ、ママ」と呼ぶのをやめて「マモさん、聖子さん」に戻した(この、妻の名前を「さん」づけで呼ぶのが新鮮でよい)。

 守に薦められて読み始めた『女性に関する十二章』の内容に沿うかのように、聖子の身にはいろいろなできごとが起こる。初恋の人・久世佑太が亡くなり、その死を知らせてきた息子の穣に彼の面影を重ね合わせてときめきを覚える。なんと、佑太が自分のことを憎からず思っていたことを知らされる。と思ったら、佑太には4人の元妻(+愛人)がいて、息子も合わせて4人という事実も判明する。はたまた、女っ気のない勉がゲイではないかと疑ってみたり、それを守の弟で正真正銘のゲイである小次郎(本名:保。「兄に守、弟に保と名づけたコンサーヴァティヴで抑圧的な父親に腹を立てた挙句、勝手に通称を名乗ることにしたらしい」)に相談してみたり、出向先のNPO法人に出入りする謎の男・片瀬の存在が気になったり。その折々に聖子は伊藤整の言葉を思い出し、ちょっと古くさいと批判してみたりしながらもなんだかんだでそこから生きるヒントを得る。

 伊藤整はこの60年ほとんど忘れられていた作家だったかもしれないが、少なくとも私は『女性に関する十二章』を読んでみたくなった。守曰く、「なんで本が好きかっていうと、本にはさ、叡智が詰まってるからだよ」。まあ、必ずしもそうとはいえない作品もある気がするけど、やっぱり本はいい。こういう話ができる夫がいるのは悪くない人生であり(うちの夫は本はそれほど読まないが、映画の話ができるのでよしとする)、そういった日々を送れるよう自分もしっかりと生きて、本(や映画など)から叡智を得ていこうと思う。最終章は「この世は生きるに値するか」という見出しになっているが、これはなかなか難しい問いかけだ。世の中では悲惨な事件が次々と起こるし、先行きに何の希望も持てないと思う日だってある。それでも。ある相手から問われたものの即答できず、思い悩んだ末に聖子がたどり着いた答えが素晴らしい。「この世は生きるに値する」と自信をもって答えられるように、私も一日一日を大切に生きて行かなければと思う。

 中島京子氏は1964年生まれの52歳とのことで、聖子とは同年代。等身大の50代女性が鮮やかに描かれているといえよう。中島作品においてしみじみとした味わいの中に光るユーモアセンスはいつも印象的だが、本書では特に顕著に感じられて思わず吹き出してしまう場面が多々あった。小学館のPR誌「本の窓」にて、最新号より対談「中島京子の扉をあけたら」の連載がスタート。さまざまな分野の「未来案内人」と「扉の先の未来」を語り合う企画だそうで、こちらも楽しみ。未来といえば、もしかしたら40年後に再び伊藤整がもてはやされる時代がやって来るかも?

(松井ゆかり)