初週視聴率は今世紀最高を記録!

初週の視聴率は今世紀最高の視聴率を誇った前作の「あさが来た」超え。4月4日から始まった連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の進撃が止まらない。ヒロインは今が旬の女優・高畑充希、テーマソングは宇多田ヒカル。話題性抜群な上に、1週目から父・竹蔵役の西島秀俊の好演が話題を呼ぶも、わずか1週間で退場……。これには「五代様ロス」ならぬ、「ととロス」なる現象が起こりました。

実は高畑充希が演じるヒロイン「小橋常子」のモデルとなっているのは、暮しの手帖社の創業者のひとりである大橋鎭子(おおはし・しずこ)。1週目で描かれたように、幼少期に父を亡くし、それ以来「とと=父」のような長女として大橋家を支えた彼女の人生はまさに波乱万丈です。今回はドラマで描かれるかもしれない大橋鎭子の伝説を前・後編に分けてご紹介します。

10歳の時に父親が結核で他界

大橋鎭子は1920年、東京の麹町に父・武雄と母・久子の間に長女として生まれました。幼少期は父が工場長を任された北海道で過ごしますが、父の結核が悪化したため大正15(1926)年には東京へ戻ります。

そんな父の容態が悪化したのは昭和5(1930)年。駆けつけた鎭子に父は「鎭子は一番大きいのだから、お母さんを助けて、晴子と芳子(妹)の面倒をみてあげなさい」と語り、亡くなります。この時、鎭子は「とと姉ちゃん」として生きていくことを誓います。その覚悟が本物であることがよく分かるのが、府立第六高女に通っていた女学生時代のエピソード。

14歳で1000万円を調達し、歯磨き粉製造を開始

14歳の頃、鎭子は母親が医者から歯槽のう漏に効く歯磨き粉のレシピを渡されたこときっかけに、歯磨き粉製造を試みます。「これを売り出したら、お金の心配のいらない世界に漕ぎ出せる」と一念発起した鎭子は土地の権利を売るなどして1000万円ほどの資金を調達し、歯磨き粉製造に必要な資材を揃えます。

こうして「O(大橋)C(鎭子)」と名付けられた歯磨き粉が誕生しましたが、結局、協力してくれるはずだった同級生の家庭に問題が起こり事業を成功させることはできませんでした。とはいえ、鎭子の行動力が10代から発揮されていたことに驚かされる出来事には違いありません。

28歳で『暮しの手帖』を創刊

鎭子は女学校を出ると、紆余曲折を経て「日本読書新聞」に勤め始めます。働きながら、日本の敗戦の気配が濃厚になりつつあるのを感じた鎭子は、終戦後にどうやって家族を支えていくかを思案します。

“自分の知らないことを調べてそれを出版したら、女性が読んでくれるんじゃないか?“。そんなことを考えている時に出会ったのが、天才編集者の花森安治(はなもり・やすじ)。花森は鎭子の熱意に感心し、一緒に雑誌を作ることを約束。1945年の10月、敗戦から約2ヵ月後の出来事でした。

こうして1948年、雑誌『美しい暮しの手帖』が誕生します。しかしながら、華やかなモデルの写真が表紙を彩る他の雑誌のなかで、家具やインテリアのイラストを配しただけの『暮しの手帖』の売り上げは伸びませんでした。

史上初の試み 「皇女の手記」を掲載!

その状況を打破することになったのが、『暮しの手帖』初めての大スクープ、皇女の手記の掲載。終戦後に流れた「皇族はマッカーサーの庇護のもと、悠々自適な生活を送っている」という噂を確かめるため、鎭子は今上天皇・明仁さまの姉である照宮さま本人に会いに行きます。

すると、皇族は噂とはまるで違い、庭でにわとりを飼うなど慎ましい生活を送られていました。それを見た鎭子は照宮さまに「今の暮しのことをつづり方(作文)で結構ですから、お書きください」と直談判。

最初は断っていた照宮さまも、最終的にはこれを引き受け400字詰め原稿用紙4〜5枚の原稿を完成させます。しかし、この原稿を見た花森はなんと「おもしろくない」と一蹴。鎭子は再度、照宮さまの元を訪れて原稿を書き直してもらい、「やりくりの記」として掲載したのです。

5号目にして10万部以上を売り上げる

皇女の手記が大ヒットしたのは、『暮しの手帖』5号目のこと。この号は増刷を重ね、約10万部以上を売り上げ、これを機に『暮しの手帖』は広く知られることになります。

父の死、そして戦時下という逆境を物ともせず、自分の道を突き進む鎭子。そんな一生懸命な彼女の姿に魅せられたからこそ、川端康成や志賀直哉など、多くの有名作家が彼女と仕事をしたのではないでしょうか。

後編では一躍有名雑誌となった『暮しの手帖』での、鎭子の活躍を紹介していきます。

(安仲ばん)