北島康介が代表入りを逃し、その結果、引退に至ることになった競泳日本選手権。兼リオ五輪派遣選手選考会。最初の100m平泳ぎ決勝で北島が2位に入りながら派遣標準記録に届かず、選に漏れると、選考方法に異を唱える人が現れた。それを知ったのは「水泳連盟に抗議殺到」というネットメディアの記事を通してだが、それはそうだろという気になる。

 この選考方法に馴染んでいる人と馴染んでいない人と、どちらが多いかと言えば後者。北島の知名度は高いが、だからといって水泳ファンが多くいるわけではない。競泳がNHK総合のゴールデンタイムに中継されることも、よくある話ではない。基本知識に乏しいまま、テレビ観戦に及べば、「なぜ?」という疑問が浮かぶのは当然だ。その何千人、何万人のうちの一人が勢い余って水連に抗議の電話を掛けることも同様。想定内の出来事だ。

 事件かといえば、事件ではない。それをわざわざ「抗議殺到」と、さも大事件であるかのように伝えるメディアの側に、僕は違和感を覚える。専門性の低いメディアならともかく、そうではない場合はなおさら質が悪く見える。競泳の五輪選考が、なぜ一発選考になったか。この経緯を踏まえれば、「抗議殺到」とは軽々に書けないはず。だが、一方で、それを忘れてしまった、あるいは元から知らない視聴者(読者)から支持、共感を得やすいことも事実。
 
 専門性を発揮すべきメディアが、このように専門的な知識の低い視聴者、読者の感情に訴えようとする姿。つまり大衆に媚び、迎合しようとする姿は、サッカーの世界にもあちこちで目に止まる。
  
 例えば、先日の欧州リーグ、ドルトムント対リバプールの準々決勝第1戦。彼に出場機会が与えられなかったことを、彼の熱狂的なファンになったつもりで、あるいは、その辺りの事情に疎い読者、視聴者になったつもりで、ビックリしてみせるな、と言いたい。
 
 これまでの使われ方を振り返れば、あるいは、専門的な知識が少しでもあれば、この事態は十分予想されたハズ。まさに想定内の出来事なのだけれど、そうしてこなかったメディアは、意外なフリをしなければ、辻褄が合わなくなる。
 
 それまで、どれほどムードに乗っかり、無邪気なフリをしてワーッと騒いできたか。そうした応援報道の貧しい実態が露わになる瞬間でもあるのだ。整合性に欠けるニュースを目の当たりにすれば、読者は「なぜ?」と疑問を抱く。そうしたムードを煽ってきたメディアの責任が問われることになるのだが、メディアはそこで、読者と一緒になって「まさか」と驚いてみせる。「なぜ?」と、子供から訊ねられた大人が、「いやお父さんもビックリしているんだ」と、苦し紛れな返答をする狡い姿を、ふと連想してしまう。
 
 ドルトムントがリバプールと引き分ければ、今度は、その不満が残る戦いをした理由を、香川を使わなかったトゥヘル監督の采配に転嫁しようとする。自らの口でストレートに批判するなら、何も問題はない。批評として成立するが、「どこどこ新聞にはこう書かれていた」と、第3者の意見に便乗するように訴える姿はいただけない。日本と違い欧州は、多種多様な意見が渦巻く場所だ。日本より、自分たちの都合にあった意見を引っ張り出すことは難しくない。いまの欧州サッカー報道のほとんどが、この手法に頼っている。
 
 ムードを煽るには最適な環境。だが、何かあった時、専門性は大きく揺らぐ。ファンと一緒に驚いてみせるのも一つの芸当だが、何度も使える手ではない。繰り返す度に、メディアとしての信用は失墜する。
 
 そうした中にあって、岡崎慎司は整合性を保ちやすい、メディアにとって都合のいい取材対象になる。所属のレスターはプレミアリーグ初優勝目前。そこで貴重な戦力として活躍する岡崎慎司は、一点の曇りもない、嘘偽りないまさに王道を行く選手として通っている。どんなに持ち上げても、それに耐えられる力がいまの岡崎にはある。