就職してしばらくたったころ、絶望感に襲われたことがある。金融の地域限定型の営業職についた私。自ら辞めない限り、定年までそのオフィスから出ることはない。学生時代は3年ごとで卒業があったのに……。「何十年とずっと同じ場所で、同じメンバーと、同じ仕事を続けていく」ことに強い絶望を感じたのだ。
あれから約10年。結局そのオフィスにいたのは、2年半だけだった。

日常は“当たり前という幻想”に包まれている

当時絶望を感じた1番の理由は、「当たり前の状況から抜け出せない」ことだった。何十年も同じ環境で同じことを繰り返すことに、クラクラしたのだ。それは、好きではない仕事だったからというのも大きい。
その後の約10年で、結婚、二度の出産、四度の引越しをし、今の仕事をはじめた。自分の意志ではじめたこと・決めたこともあるが、自分の意思とは無関係に決まったことも多い。
変化を重ねて学んだことは、私たちが見ている日常は、“当たり前という幻想”に過ぎないということ。今、この場所で当たり前のようにしていること、一緒にいる人、生きている自分さえも、実際はすべて当たり前なんかじゃない。
それは“幻想”であり、いつ終わりがくるのかなんて、当の本人にもわからないのだ。

一生幻想を抱き続けていい

そう気付いてからは、当たり前ということに抵抗して生きてきた。とくに育児をしていると、一日一日成長のめまぐるしい子どもを目の当たりにする。いやでも日々の変化を感じさせられるのだ。
「当たり前に甘んじず、大事に毎日を生きよう」――そう思っていたはずだったが、今回3年ぶりに引越すことが決まって、当たり前に甘んじていた自分に気が付いた。あれほど気を付けていたのに、いつの間にか生活は“当たり前”であふれていた。もう、この道を通って息子を園に送ることはないのか。もう、この部屋で家族そろって眠りにつくことはないのか。もう、この景色を眺めることもないのか……自分に呆れるほど、私の中は“当たり前”で満ちていた。
きっとこうやって一生、“当たり前という幻想”のなかで私は生きていくのだと思う。最期のその日、いやその瞬間まで、当たり前を疑わずに。

そう気付いてからは、当たり前に抵抗することはやめた。当たり前の日常に、嫌悪感を感じるときもある。けれどとくにツラいときなんかは、当たり前に救われること日もあるのだ。
人間がどうあがいたって、「当たり前ということはない」そのこと自体に変わりはない。ただ「当たり前だと信じ込んでいる」その時間はきっと、永遠に等しい。そうでもないと人間は生きていけないのだと、30歳を超えた今実感するのである。