それは、どちらが勝っても、新たな歴史が生まれる日であった――。

 ノバク・ジョコビッチ(セルビア)が勝てば、その勝利は彼にとって28回目のマスターズ優勝となり、27回で肩を並べるラファエル・ナダル(スペイン)を抜いて「歴代単独1位」に躍り出ることになる。

 あるいは錦織圭が勝てば、それは「アジア人初のマスターズ優勝」という金字塔となり、同時に、ジョコビッチよりも若い唯一のマスターズタイトルホルダーが誕生することをも意味していた。

「今季の目標は、マスターズで優勝すること」

 そう公言していた錦織が、当面の目標まであと1勝と迫った日。3月下旬から4月上旬にかけた2週間――96名のトップ選手により競われたマイアミ・オープンの頂上決戦は、「世界1位の絶対王者」と「日本から現れた革命児」の対決であった。

「ミスを減らすことが一番重要ですね。毎回負けたときは、ミスが増えて自滅するパターンなので、なるべくそれを減らすこと。あとはサーブの大事さ。サーブの安定ですね」

 マイアミ・マスターズの直前、アメリカ西海岸で行なわれたインディアンウェルズ・マスターズの初戦を突破した錦織は、「マスターズ優勝のために必要なこと」として、その2点を真っ先に挙げた。

「自滅するパターン」をなくすこと、そして「サーブを安定させ、確実に自分のゲームをキープすること」。それらに加え、特にインディアンウェルズでは、岩砂漠特有の環境に適応することも求められた。

 昨年の時点で、インディアンウェルズでの戦績は4勝7敗。最高成績は、昨年残した4回戦。改めて言うまでもなく、これらの数字は、錦織がこの大会を他のどこよりも苦手としていることを明瞭に示している。本選で初勝利を手にしたのも、3年前。それまでは4大会連続で初戦負けを喫していたほどだ。

 その苦手のインディアンウェルズで、初めてベスト8に勝ち進めた要因こそが、「ミスの少なさ」と「サーブの安定」である。特に、最高時速157マイル(約252キロ)の超高速サーブを誇るジョン・イズナー(アメリカ)と対戦した4回戦では、サーブの安定感が最大の勝利のカギとなった。

 透明度の高い砂漠の空気のなかを伸びやかに飛び、バウンドと同時に高く跳ねる相手のサーブの前に、ツアー最高クラスのリターンを持つあの錦織が、「策が尽き、お手上げ」状態だったと告白する。しかし、その苦闘のなか、彼は自分のサービスゲームをキープし、数少ないチャンスを手にする戦法に勝機を求めた。結果、第2・第3の両セットでブレークを許すことなく、タイブレークの末に奪って辛勝。特に第2セットでは、ファーストサーブの確率は76%、ポイント獲得率92%。セカンドサーブでも62%という、いずれもイズナーを上回るポイント獲得率を記録した。

 もっとも苦手とするインディアンウェルズから一転、過去2大会連続でベスト8以上に勝ち進んでいる得意のマイアミでも、錦織は自らが掲げた"ふたつのカギ"で、勝利への扉を次々に開ける。

 特に準々決勝のガエル・モンフィス(フランス)戦では、第3セット終盤で0−40と相手に3連続マッチポイントを握られるも、スピンをかけてコーナーを突くサーブを風下から打ち、2連続サービスウイナーを決めてみせた。計5本のマッチポイントをしのいだこの試合は、彼が窮地に立ったときほど集中力を研ぎ澄まし、その時々でもっとも効果的なサーブを打てること。そして己を律し、絶体絶命の崖っぷちからでも生還できる選手であることを証明していた。

 だが、その錦織が決勝のジョコビッチ戦では、崩れた。最初のゲームでは長い打ち合いを制し、主導権を掌握してブレークする会心のスタートを切りながらも、続くゲームではダブルフォールトもあり、ブレークバックを許す。

 セカンドセットの第1ゲームも、30−0とリードしながら、ダブルフォールトを絡めたミスの連続で失う。第2セットのファーストサーブの確率は46%。重ねた30個のアンフォーストエラー(自ら犯したミス)が、敗戦の理由を浮き彫りにした。

 試合後に錦織は、「打たないほうがいいのか、打ったほうがいいのか、なかなかわからなかった」と、攻撃的に行くべきか、あるいはミスを減らすことを重視すべきか、その判断をしかねたのだと困惑した表情で言った。その悔いと歯がゆさの入り混じった面持ちは、今回のみならず、ここ最近ジョコビッチと対戦した後にいつも見せる顔でもある。

 いや、錦織だけではない......。ジョコビッチに敗れた者がこのように悄然とした表情を見せる姿を、今まで幾度も目撃してきた。

 たとえば、2011年・全米オープン準決勝のジョコビッチ対ロジャー・フェデラー(スイス)戦。自らのサービスゲームでふたつのマッチポイントを手にしたフェデラーは、ジョコビッチに信じがたいリターンエースを叩き込まれ、それを機に崩れ去っている。

「どうして今、自分が敗者としてここにいるのか、わからない」

 試合後にフェデラーは、茫然として口にした。「僕には、あの場面であのようなギャンブル的なショットを打つことが信じられない。僕は、堅実な組み立てが報われると信じているから......」。そのときの言葉から見て取れたのは、未知で異質なものに遭遇した際の、当惑と恐怖であった。窮地にあって、イチかバチかのギャンブルに出るジョコビッチの不敵さは、フェデラーのテニス哲学とは相容れないものだったのだろう。

 ジョコビッチに敗れた錦織の姿からはいつも、あのときのフェデラーのような当惑がにじみ出る。自分の信じるテニスセオリーが通用しない、その恐怖が錦織を焦らせ、わからなくさせる――。そう感じられてならなかった。

 その迷いを、焦りを、乗り越えるために必要なものとは、何だろうか?

「ここから先に行くには、周りを見る余裕......、人間的な成熟が必要なのかもしれない」と言ったのは、父親の清志さんである。

 あるいは、フェデラーが相手のセカンドサーブをハーフボレーで打ち返してネットにつめる妙技でジョコビッチから3ヶ月の間にふたつの勝利を奪ったように、絶対王者のシステムすら崩す武器を錦織が会得することかもしれない。

 どちらが勝っても歴史が生まれる対戦で、結果生まれた記録は、28回のマスターズ優勝最多優勝であった。

 一方で錦織は、インディアンウェルズとマイアミの双方で、それぞれ自己最高の成績を残した。盤石のストレート勝ちが6試合。第1セットを落としながらの、見る者の心を打つ逆転勝利が2試合。ふたつの大会を通じて、しのいだマッチポイントは計8本――。

 世界1位への挑戦権を持つ選手であることを証明した今、セオリーを超越した王者を倒す、もっとも難解なクエストがここから始まる。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki