『くれなゐの紐』須賀 しのぶ 光文社

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 ノスタルジーというのはひとつ前の時代に感じるものだろうか。例えば平成の現在は「ALWAYS 三丁目の夕日」などの昭和テイストが好まれているけれど、昭和の頃にはマンガ『はいからさんが通る』などの大正ロマン的なものに人気があったと思う。そこでこの『くれなゐの紐』だ。美麗な表紙絵は、手前が男子で後ろが女子とのこと(2月11日付の著者Twitterより。手前が主人公の鈴木仙太郎で、後ろはおそらく少女ギャング団団長の操であろう)。

 美しいイラストで彩られてはいるが、本書で描かれるのは砂糖菓子のような甘い世界ではない。ギャング団などというものが出てくるだけあって、絶えずきな臭い事件が起こっている。舞台は六区を中心とした浅草界隈。仙太郎は姉・ハルを探して浅草にやって来た。ハルが姿を消したのは4年前、祝言を挙げる前日のことだった。身投げをしたものと思われていたハルからもうひとりの姉・ミツのもとに浅草の消印が入った葉書が届いたことで、狂言自殺が発覚。その後母親が自殺を遂げ、仙太郎はハルにそのことを知らせるために来た。さらに、なぜ彼女が行方をくらましたかを知るために。

 仙太郎が操に目をつけられたのは、彼が女装をして掏摸を働いたとき。子どもがひとり六区で生きていこうと思ったら、少年とくらべて少女の仕事であればいくらでもあるのだ。さすがに売春行為は無理だが、男より女の方が周りに警戒心を抱かせにくいと気づいた仙太郎は、背に腹はかえられぬと女装で掏摸に及ぶことにした。そんなところへ現れたのが、浅草で最大の組織である『紅紐団』を率いる操(このときは男装)。操がハルを知っているのではないかとにらんだ仙太郎は、紅紐団に入団させてくれと頼み込み...。

 少女といえどもやってることはいっぱしのギャング、ちょっと前まで最も大きな組織だった『弁天団』とも対等に渡り合う。団長は帝大生という青年たちで構成される弁天団だが、紅紐団はその姉妹組織だったのだ。袂を分かったのは、少女たちからの上納金で男連中が好き勝手にやったから。

 本書では、女であることの不自由さが繰り返し描かれる。今でこそ「かわいい洋服を着られるから女の子でよかった」「育てやすいから娘がほしい」と女子の価値は高まっているが(それでも依然として男女差別は残っていると思うけれども)、この時代女性の地位はまだまだ低かった。女であるために上の学校へ行けない、女が就ける職業は限られている、女は男の都合で将来を決められてしまう...。ハルも、操も、紅紐団の少女たちも、女であるという制約にがんじがらめにされた。ある者はそれをバネにしたが、ある者はそれに屈することとなった。女の服を着て少女たちの苦悩を目の当たりにした仙太郎が、自分にできることをしていこうと未来を見据えるラストが素晴らしい(余談であるが、10年近く前に97歳で亡くなった私の祖母が、婦人に参政権が与えられて以来一度たりとも投票を欠かさなかったことを思い出した)。

 須賀氏は『芙蓉千里』(第1〜3作。角川文庫)で2012年度センス・オブ・ジェンダー賞を受賞。性差というものについて、本書でも切り込んだ著者にふさわしい賞であろう。男女が真の意味で対等になり(それは男女が何もかも同じことをするということではないと個人的には思う。どうしたって女は力では男にかなわないし、出産のように片方にしかできないこともあるし。精神面というか、意識の持ちようかなと思っている)、それがすべての人の幸福につながることを祈る。

(松井ゆかり)