いよいよあす4月2日、NHKの連続テレビ小説「あさが来た」が最終回を迎える。今週水曜放送の第153回では、ヒロインの白岡あさ(波瑠)が、自分のつくった女子大学の学生である平塚明(はる)、のちの女性解放運動家・平塚らいてう(大島優子)たちの来宅を受け、論難されるという場面があった。


だが、あさはらいてうの言い分を最後まで聞いたうえ、ここまで自分の意見を持ってきちんと物が言える女性が出てきたとはと感服してみせる。そして最後に「秋の運動会ででもお会いしまひょ。今年はうちもあんさんがたと一緒に自転車乗り、参加させてもらいますよってになあ」とにこやかに再会を約束するのだった。

自転車がつないだ五代とあさ、そしてらいてう


運動会に自転車とは、いまからするとちょっと奇異にも思える。しかし、あさのモデル・広岡浅子が設立に尽力した日本女子大学校(現・日本女子大学)の運動会では、実際に自転車乗りが呼び物となっていた。平塚らいてうの自伝によれば、学生たちは自転車を走らせながら、紅白の球ひろいのゲームを行なったという。

《女が自転車に乗るのはまだ珍しいころでしたが、女子大では、よい運動の一種として奨励されていて、練習用の自転車が十台あまり備えつけてありました。和服に揃いの色の袴をはいた女学生が、広い運動場を隊をつくって自転車を走らせる姿は、参観人の喝采を大いに博したものでした》(『元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝 上巻』大月書店)

思えば、「あさが来た」では折に触れて自転車が登場した。まず、幕末を舞台にしたドラマ前半、薩摩藩士だった五代友厚(ディーン・フジオカ)がイギリス留学中、街で女性が自転車に乗る姿を見てあさを思い出したと、彼女に手紙をよこしたのがそもそもの始まりだ。あさと五代はやがてビジネスパートナーとして大阪財界を盛り立てていく。五代の没後、あさはイギリスから輸入を勧められた自転車の写真を見て、いつかこれを必ず乗りこなせるようになると誓う。そして、のちに女子大学設立のため奔走するかたわら、ついに自転車を手に入れるとさっそく練習を始めたのだった。

こうして見ると、「あさが来た」において自転車は、五代とあさをつなぐ重要な小道具であったことに気づかされる。五代がイギリスで見た自転車に乗る女性は、自分の意志をもって行動する近代女性の象徴であり、彼はその理想をあさに託したともいえる。ひょっとすると、脚本の大森美香は、日本女子大の運動会での自転車乗りの話から、この着想を得たのだろうか。

木俣冬さんがきのうのドラマレビューで指摘していたとおり、あさに引導を渡す役に平塚らいてうを持ってきたのも的確なら、あさの「運動会で一緒に自転車乗りに参加させてもらうよってに」とのセリフによって、自転車に彼女が次世代に託したバトンという意味を与えたのも見事だ。これによって五代・あさ・らいてうが一本につながったのだから。

らいてう自伝に書かれた広岡浅子の評判


さて、正味の話、平塚らいてうは、あさのモデルとなった広岡浅子のことをどう思っていたのだろうか。らいてうが浅子を面と向かって批判したのはもちろんフィクションだが、前出の自伝を読むと、ドラマでらいてうが浅子にぶつけたセリフは現実の彼女の思いを忠実に反映していたことがわかる。


らいてうの在学中の日本女子大には、学校の後援者である政財界の大物たちがたびたび訪れ、学生に話をすることもあった。しかしらいてうに言わせれば、《この人たちの話は、たいてい内容のないことをもっともらしく引き伸ばしたお座なりのものですから、感心したことなどはなく、こういう種類の人たちを、とうていわたくしは偉い人とも、尊敬できる人とも思えませんでした》。彼女が「こういう種類の人たち」の代表としてあげたのが政治家の大隈重信と、そして広岡浅子だった。

《ほかに不愉快なことで印象に残っている人に、関西の銀行屋、加島屋の当主夫人で、女の実業家として当時知られていた広岡浅子という女傑がありました。学校の創立委員としてたいへん功績のあった人ということですが、熱心のあまりでしょうが、ガミガミ学生を叱りつけるばかりか、校長にまでピシピシ文句をつけたりします。ある日家政科の上級生に対して、実際生活に直接役に立たないような空理空論は三文の値打ちもない、あなた方はもっと実際的であれというようなことを自分の手腕に自信満々という態度で、押しつけがましく、いかにもせっかちそうにしゃべっているのを聞いてからは、いっそういやな人だと思うようになり、とても学校の、また女子教育の恩人として、尊敬したり、感謝したりするような気にはなれないのでした》(『元始、女性は太陽であった――平塚らいてう自伝 上巻』)

この自伝は1971(昭和46)年、らいてうの亡くなった直後に出版されている。最晩年に書かれたものだから、浅子への反感は終生変わらなかったといえる。設立まもない女子大学では、後援者が来るたび学生が接待役に駆り出され、そこで率先して働く者が評価されていた。らいてうにはそれも釈然としなかったようだ。

そもそもらいてうは、やはりドラマのセリフにあったとおり、校長の成瀬仁蔵(劇中では「成澤泉」という役名で瀬戸康史が演じた)の著書『女子教育』に強い感銘を受け、反対する父親を説得して女子大に入学した。それだけに、成瀬が後援者に過度な感謝の態度を示すのを見るにつけ、つくづく気の毒になったという。

日本女子大建学にあたり自学・自習・創造性の尊重に重点を置いた成瀬は、らいてうばかりでなく多くの学生にとって崇拝の対象であった。しかしほとんどの学生は、試験も落第もないのをいいことに、ノートもまともにとっていなかった。そのなかにあってらいてうだけは、講義のあとノートを整理したり、図書室で参考書にあたったりと勉強に熱を入れた。それだけに周囲の学生に失望も抱いたようだ。

ちなみにらいてうは、父から家政科ならとの条件つきで大学入学を認めてもらった。ただし、家政科の講義にはあまり興味がなく、文科の講義をよく聴きに行っていたという。卒論は結局、在学中に禅に傾倒した経験などから宗教発達史という形で書いて提出し、1906(明治39)年に無事卒業している。

蛇足ながら、らいてうが大学に入学したのは1903年、満17歳のときで、今回のドラマで彼女を演じた大島優子が2006年にAKB48に加入したのと同じ年齢だ。さらにいえば、大島がAKBを卒業したのは25歳、らいてうはその歳で女性のみ30名で青鞜社を結成、文芸同人誌「青鞜」を創刊し、雷鳥からとった筆名を初めて用いている(1911年)。

母親が国家に保護を求めるのは甘えか? 与謝野晶子と論争


女子大卒業後の平塚らいてうの軌跡にも簡単に触れておこう。作家・森田草平との恋愛事件(1908年)から、さらに「青鞜」発刊中には、掲載作品が問題視され発禁となったり、青鞜社の一部社員による遊郭見学・飲酒が「吉原登楼事件」「五色の酒事件」などとスキャンダラスに扱われたりと、らいてうや青鞜社に対しては批判や嘲笑が絶えなかった。

批判者のなかには、かつてらいてうが心酔した成瀬仁蔵もいた。成瀬は新聞の談話記事で、らいてうたち「新しい女」の行動を非難している。さらに同じ記事で成瀬が「賢妻良母主義をもってもっぱら人格問題に基礎を置くという点で、日本の女子教育には欧米よりすぐれたものがある」と発言したことは、らいてうを落胆させた。

「新しい女」も揶揄的な意味合いで流行語となり、青鞜社内部には「私は新しい女ではない」と逃げ腰になる者も少なくなかったという。しかしらいてうはむしろ積極的に「新しい女」とは何か、いかにあるべきかを追究していった。3つ年下の日本画家・奥村博史と出会い、やがて自由恋愛の実践として共同生活を始めたのもこのころだ。

「青鞜」は1915(大正4)年にらいてうから伊藤野枝に編集が引き継がれたのち、翌16年に廃刊となる。しかしらいてうの闘いはその後も死ぬまで続いた。1918年には、「青鞜」の寄稿者の一人であった歌人の与謝野晶子と「母性保護論争」を繰り広げている。このとき、晶子の「妊娠出産は個人的なことであるにもかかわらず、経済力のない女性が国家に母性保護を求めるのは甘えだ」との主張に対し、らいてうが「妊娠出産は公的な行為であり、ゆえに母を保護することは個人の幸福のために必要なばかりか、その子供を通じて社会全体の幸福、全人類の将来のために必要だ」と反論した。両者の論争に、最近の「保育園落ちた日本死ね」という匿名ブログに端を発する一連の動きとの共通性を見出すのは私だけではないだろう。

ところで、「青鞜」の創刊号の表紙絵は、らいてうの日本女子大の後輩である洋画家・長沼智恵子が描いたものだった。学生時代、らいてうは智恵子とよくテニスをしては、相手が内気な性格に似合わぬ強い球を矢継ぎ早に打ちこんでくるのに悩まされたという。

長沼智恵子は1914年に詩人の高村光太郎と結婚し、『智恵子抄』でその名を知られるようになる。らいてうは自伝のなかで学生時代を振り返りながら、この親友が水彩画の大きな絵具箱を肩にかけて校庭を歩くさま、そして自転車で運動場をくるくる廻っている姿を懐かしげに記している。明治の終わり、自転車は間違いなく新しい女のシンボルであった。
(近藤正高)