中国の大手ポータルサイト「新浪網」は、このほど「明代の倭寇の真相を大暴露」とする記事を掲載した。中国では「倭寇」のことを、日本による歴史的な中国侵略の1つとみなす人が多いが、同記事は、元朝末期や明朝初期を除けば、倭寇を率いていたのは中国人と紹介した。(写真は新浪網の22日付報道の画面キャプチャー)

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 中国の大手ポータルサイト「新浪網」は、このほど「明代の倭寇の真相を大暴露」とする記事を掲載した。中国では「倭寇」のことを、日本による歴史的な中国侵略の1つとみなす人が多いが、同記事は、元朝末期や明朝初期を除けば、倭寇を率いていたのは中国人と紹介した。

 記事は冒頭部分で、明時代の倭寇発生について、「そもそもの原因」を作ったのは中国政府と指摘。すなわち、明初代皇帝の朱元璋が1371年に発布した「寸板も下海を許さず(板切れも海に浮かべてはならない)」とする「海禁」だ。

 記事は、朱元璋について「農民出身であり青色文明(海洋交易文明)を知らず、反感を持っていた」と指摘。また、中国皇帝は天下に君臨するとの感覚にもとづく「いびつな朝貢貿易しか残そうとしなかった」と批判した。

 16世紀の当時はすでに「大航海時代」という世界的な流れが確定しており、海に乗り出した中国人の大商人もいたが、明朝は「密貿易者」として厳しく弾圧した。

 記事は例として、商人兼倭寇の首魁だった王直を紹介した。王直は弾圧を逃れ日本の平戸を拠点にしたが、中国側は王直に、老母と妻を釈放し、王直には官位を与え貿易活動も認めるなどと書状を送った。喜んで帰国した王直を当局は捕らえ、首をはねた。

 記事は、当局側に極めて不誠実な手法なで用いて交易活動を弾圧したことを、率直に紹介した。

 倭寇、特に後期の倭寇は明を衰退させる大きな原因になった。記事は後期倭寇について、日本人武士も参加していたが、率いていたのは中国人と指摘。それが「倭寇」という、日本人が主体との印象が持たれる名称になったことについて、改めて明朝の政策を批判。

 海禁は漁民の出漁も許さず、違反すれば「九族すべてを誅殺」という極めて厳しい政策だったが、海岸地帯では海に出ないと生活できない民衆も多く、彼らは万一の際にも家族は守るよう、自らを「倭人」と称したという。

 さらに、浙江省や福建省など、「倭寇の被害」を受けた土地の官僚が明朝中央に報告する際、「中国人の反乱」と事実を伝えると、政治的に自らが責任を取らねばならないので、「倭乱」が発生したと報告した。

 記事は最後の部分で、「倭寇」の実態について「海禁政策が誘導した海岸地方の民衆による抗争・反乱」であり、反乱する側も鎮圧する側も、日本に名を借りた「共同虚構」だったと指摘した。

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◆解説◆
 中国では「明代」を栄光の時代と認識する傾向がある。異民族として中国を支配した「元朝」を覆した王朝だったことが、大きな原因だ。

 しかし、明代の政治を見ると実際には、殺伐として陰湿な出来事が多かったことがわかる。海についての政策の失敗も、おおむね上記記事の指摘するとおりだ。

海上交易を大いに発達させたのはむしろ前の時代の元朝だった。軍事力で広大な領域を支配することになったモンゴル民族だが、フビライ帝以降はむしろ、交易国家の性格を強めた。モンゴル人はシルクロードの交易をよく知っていたことも、背景にあったと考えられる。

 なお、モンゴルが中国を侵攻した際の「虐殺」についても、過大に語られているとの指摘がある。例えば、宋代に海上交易の拠点として栄えた泉州をモンゴルは徹底的に破壊されたとされるが、元代になって泉州がすぐに復活していることから「泉州大虐殺」は政治的な宣伝にすぎないと主張する研究者がいる。

上記記事は、多くの中国にとって「聞いて心地がよくない」歴史について、当時の当局批判を含めて「事実」を伝えようと努めた点で興味深い。(編集担当:如月隼人)(写真は新浪網の22日付報道の画面キャプチャー)