「僕には生きる目標がありません。苦しみながら生活するのは、うんざりです。いいことは束の間で、不愉快な時間は延々と続く。人生は本質的に残酷なんだ。生きていればいいこともある、と諭しても無駄です」
「花を見て美しいと思う。空や海を眺めているだけで感動できることがある。春の風はどうしてあんなに心地いいんだろうな。俺には、世界が本質的に残酷だとは思えない」(「ロジカル・デスゲーム」『長い廊下がある家』


連続ドラマ「臨床犯罪学者 火村英生の推理」は3月20日に放送された「ロジカル・デスゲーム」で最終回を迎えた。もっとも、それはテレビドラマだけのことで、ネット配信のhuluではさらなる物語を観ることができる。「探偵、青の時代」(『菩提樹荘の殺人』)と「切り裂きジャックを待ちながら」(『ペルシャ猫の謎』)を原作とする3話だ。ドラマが終わって淋しい思いをされていた方には朗報である。

原作の魅力を忠実に再現


このレビューで何度もくり返し書いてきたことだが、ドラマ「臨床犯罪学者 火村英生の推理」は、純度の高い謎解きミステリーの美点を損なわずに映像化することに努力を払い続けた作品であったと思う。特に長篇『朱色の研究』を前後編にまとめた手際には感心させられた。映像化で原作の特徴が失われるのでは、と警戒しがちなファンも、あの回で制作者を信用したのではないか。
ミステリーではなく主人公・火村英生と有栖川有栖の友情劇の部分に着目するファンも、本作には合格点をつけたのではないかと思う。キャスティングの段階で原作ではゲストの位置づけであるキャラクターがレギュラーとして抜擢されることが判明し、若干の動揺があった。安定した人間関係をいじられるのはファンが忌避することだが、特に大きかったのは、火村とアリスの間に第三者が割って入るのでは、という危惧であったはずだ。幸い、それは避けられた。特に貴島朱美が助手に立候補した際、火村英生がそれをにべなく断った場面では、快哉を上げたファンも多かったと思われる。
謎解きの魅力を忠実に再現することに熱心だった制作者が唯一投じた異分子がシャングリラ十字軍とそれを率いる諸星沙奈江というキャラクターだった。これは続きものとして次回への関心を惹かなければならないテレビドラマでは、許容されるべき改変だ。話によっては、犯人が原作では関係ないシャングリラ十字軍とつながりを持たせられるという要素の追加も見られたが、謎解きの本筋で見れば添え物であり、原作の魅力が殺されることはなかった。安易なスリラー風味に頼らなかったことが「臨床犯罪学者 火村英生の推理」で私が最も評価する点である。

諸星沙奈江の意外な正体


テレビ放映分としては最終話となった「ロジカル・デスゲーム」ではさすがにその抑制が外れ、連続劇をしめくくるために原作にはない要素が盛り込まれた回となった。
長谷川京子演じる諸星沙奈江は、ドラマ化に際して投入された最大の異分子である。彼女が最後の敵として火村の前に立ちはだかるであろうということは序盤の段階からほのめかされていた(最終回の敵にならなければ、それこそ無駄な配役である)。したがって原作の犯人である千舟傑(であるということは最初から明かされる。為念)に代わって彼女が犯人に起用されたのは当然であった。

ちょっと意外だったのは彼女がシャーロック・ホームズ譚におけるモリアーティ教授を意識したキャラクターだということが明かされた点である。そこは正直言って盲点であった。MoroboshiはMoriartyだったのだ。
サー・アーサー・コナン・ドイル作のシャーロック・ホームズを主人公とする連作には長短篇合わせて60の正典がある。だが彼が実際に姿を表すのは、わずかに「最後の事件」1作のみである。他の作品中で言及されることはあるが、本来はどう贔屓目に見てもゲスト・キャラクターの1人に過ぎない。にも関わらずその存在が読者に強く記銘されているのは、「最後の事件」でホームズを表舞台から一旦退場させるのに大きく関わったという事実があるからだろう。原作をお読みでない方が万一いらっしゃるといけないので、ここではそれを「ライヘンバッハの滝」事件とだけ書いておく。
モリアーティ教授がホームズと盤面を挟んで対峙する敵役にまで昇格させられていたのが、ベネディクト・カンバーバッチ主演のドラマ「SHERLOCK」だった。だから厳密には原作ではなく、ドラマの対立構造を「火村英生の推理」では採用したことになる。このレビューの初めにも「SHERLOCK」を制作者が意識しているのではないか、と指摘した記憶がある(火村が推理を行う際に過去の情報が断片的な映像として再現される点など)。現代の推理劇において最も魅力的な類型を作り出したドラマだけに、後続の制作者がそれを意識するのは当然のことではある。「SHERLOCK」シーズン2の結末は例の「ライヘンバッハの滝」を採用したものだったのだが、「火村英生の推理」もそれに倣った形になった。

あえて違和感について書く


くり返しになるが、連続劇としてドラマを成立させる上で諸星沙奈江というキャラクターを軸にしたサイドストーリーを作るのは、納得しうる試みであった。ただし、それによって物語が類型化したという面もある。事件に直接関わらず、間接的に人を操って犯行に向かわせる黒幕というのはトマス・ハリス『羊たちの沈黙』とその映画化作品のヒット以降、人気のある設定になった。一時は雨後の筍のようにハンニバル・レクター教授を模倣した怪物が作られていたという記憶がある。諸星沙奈江も、残念ながらその亜流から抜け出せてはいないキャラクターだったと私は考える。諸星沙奈江の相手というのは、火村英生には役不足だろう。もっとどす黒い内面を持つ犯罪者を幾人も塀の向こうへ送り込んできた男なのだから。

最終回にはそれ以外に2つ、残念だったことがある。最初に書いたように全体としては楽しく鑑賞できた良作であるだけに、あえて触れておきたい。
1つは、「どんでん返しのためのどんでん返し」だ。警察の中に内通者がいることが以前の回で匂わされていた。その内通者が暴かれる展開が、後半に入れ込まれていたのである。だがそれをするのであれば、内通者がその人物であることを示す手がかりは与えておくべきではなかったか。前もっての手続きが省かれていたために、この展開には唐突感が否めず、諸星沙奈江を逃走させるためのご都合主義という印象を受けた。スリラーとしてはそれで構わないのだが、謎解きという要素に特化してきたドラマだけに、ここは羊頭狗肉の感があった。

現代ミステリーの到達点


もう1つは、「ロジカル・デスゲーム」原作が、物語のトリに採用されなかったことである。公平を期すために正確に言えば、ドラマではきちんと原作通りの謎解きが描かれた。ただ、その後にオリジナルの展開があったのである(「朱色の研究」である登場人物が「崖の上のクライマックス」を揶揄する台詞を吐いていた。それが最終回で行われるとは。意外な展開である)。そのために原作の切れ味が鈍ったことは否めない。

「ロジカル・デスゲーム」という短篇は非常に美しい。
原作における犯人の千舟は、絶望につけこむ男だ。人生に失敗し、もう後がないという状態のひとびとに接近し、多額の賞金を餌にゲームを持ちかける。その結果として3人の犠牲者を自殺による死へと追い込んできたのである。その男が火村に目をつけ、ゲームに無理矢理参加させる。知恵を振り絞って火村はそれに対抗するのだ。
冒頭に引用したのは、千舟と火村が交わす会話からの抜粋だ。本篇における火村は、犯罪者の狩人というよりは、厭世の念に支配されて人間ではなくなろうとしている相手を、なんとかしてこちらの側に引き戻そうとしているように見える。彼は言う。

「人を殺したいと思ったことはあるが、自ら命を絶とうと思ったことはない。一度も」

火村が千舟との知恵比べに応じたのは、自らの姿勢を貫き通すためだ。暴力によって死を強制してくる相手に対し、同じ暴力ではなく知性の力で対抗しうるか。死の恐怖に瀕しても自身を喪わず、論理的な態度を徹することができるか。そうした挑戦を千舟というよりは自らに対して行ったのが「ロジカル・デスゲーム」の火村なのである。

本作が収録された短篇集『長い廊下がある家』の文庫解説は私が執筆した。できればそちらも参照していただきたいのだが、なぜ「ロジカル・デスゲーム」を私が高く評価するのかを書いてこの原稿をしめくくりたい。
日本では謎解きミステリーが質量共に成長を遂げた。全体の底上げが行われれば、それに伴って難度の高い問題が起き、実作者たちはその壁を乗り越えなければならなくなる。無邪気に謎と戯れているだけでは気が済まなくなるのだ。
いくつかある課題のうち「ロジカル・デスゲーム」が挑戦したのは「謎解きの領域を広げる」ことだった。実は謎解きには限界がある。1つの謎が解かれることですべての問題が解決するというようなファンタジーは、現在ではなかなか成立しにくい。謎が解かれても問題は残り、その重圧がカタルシスを妨げる。あくまで解けるのは、目の前にあるその謎だけなのである。
「ロジカル・デスゲーム」において火村が解答を求められたのは3つのグラスのどれに毒が入っているか、というごく単純なものだ(ドラマでは言及されていないが、原作では〈モンティ・ホール問題〉という知的好奇心を刺激される話題について触れられている。ぜひご一読を)。しかし彼が直面している問題はそれだけではなく、危地から脱出しなければならない。自分の命が狙われているということもあるが、その解決のために千舟傑を排除するのでは駄目なのだ。あくまで知力のみで、暴力に打ち勝たなければいけないのである。
「ロジカル・デスゲーム」において火村が出した答えは、まったく暴力に訴えないものでありながら、絶望的な局面を打破するものだった。謎と同時に問題を解決するという難度の高いことを成し遂げたのだ。そうした形で火村は千舟に対抗する道を選んだのである。

私がドラマ版の結末に不満を感じてしまうのは、原作「ロジカル・デスゲーム」の鮮やかな幕切れに魅了されているからだ。崖の上の対決もいいが、グラス3つの対決で諸星沙奈江を完全に打ち負かす火村を観られたら、どんなに感動しただろうと思う。拳銃の威力以上に論理が力を持つことを示す、またとない名場面なのだから。

以上、ないものねだりとは十分承知の上で、あえて原作ファンとして書いた次第。もちろん全体としてはよきドラマ化を成し遂げてくれた制作者のみなさまには感謝しているし、よい作品になったと思う。おつかれさまでした。ありがとうございます。
(杉江松恋)