飛び上がり、何度も激しくガッツポーズを突き上げる姿は、まるで勝利を決めたかのようであった――。

 たしかに、そこに到る「ふたつのゲーム」こそが、結果的に試合の行方を決めはした。だが、それが現実になったのは、このときよりさらに1時間ほど後のことである。

 準決勝の席をかけて行なわれた、錦織圭対ラファエル・ナダルのBNPパリバオープン(インディアンウェルズ)・準々決勝。「最初から攻めようと思っていた。彼(ナダル)のボールも特に序盤は浅かったので、自分から打っていった」と言う錦織の覚悟の攻めが、そして機を見て沈めるドロップショットが、世界5位ながら今季まだ「トップ50」から勝利のないナダルを圧倒する。

 錦織が第3ゲームをブレークし、ゲームカウント3−1で迎えたナダルのサービスゲームでも、ふたたび大きなチャンスは訪れた。15−40と2本のブレークチャンスを掴み、続く打ち合いでも錦織のバックの強打がナダルをコーナーに追い詰める。力ない返球を狙い澄まして、オープンコート目がけて放ったフォアの一打。しかし、黄色いボールは乾いた音を立て、ネットの5センチほど下を叩いた。次のポイントでも錦織のフォアはラインを割り、結果的にナダルが第5ゲームをキープする。

 試合の趨勢を決めかねない危機を切り抜けたナダルは、次の錦織のサービスゲームで、集中力のレベルを一段引き上げた。30−30の場面で錦織が放ったコーナーぎりぎりに刺さるストローク――ラインパーソンは、素早く両手でラインを差して『イン』であると主張するが、ナダルは片手を掲げて『チャレンジ』の意思を示す。はたして巨大スクリーンに流れた再生ビデオは、ボールがわずかにラインを外したことを映し出した。

 このチャレンジ成功により、迎えたナダルのブレークポイント。強打に押された錦織の返球がネットに掛かったその瞬間、ナダルは激しく吠え、観客たちは熱狂的に彼の名を叫んだ。沸き起こる「ナダル・コール」が、過去にこの地で3度トロフィーを掲げた元世界1位を、激しく後押しし始めたのだ。

 この1ゲームを機に、ナダルのストロークは伸びを増す。ファーストサーブの確率も高く、スピンとスライスを交えながらコーナーに打ち分けられる巧みさの前に、錦織のリターンは鋭さを欠いていった。

「ブレークバックしたあのゲームは、とても、とっても重要な局面だった」と、のちにナダルは述懐する。

 対する錦織も、あのゲームを大きなターニングポイントとして振り返った。

「気持ちを引きずることはなかったですが、大事なゲームだったのに追いつかれて......。一番重要なゲームだった。しかも風上だったので、そこがよくなかったですね」

 また、「一番悔やむ数ポイント」として挙げたのが、前出の第5ゲームのブレークポイントだ。

「15−40からの場面もそうだし、少しミスが相次いでしまった。他にも悔やむポイントはもちろんありますが、あそこのゲームもブレークして4−1にしていれば、おそらく展開は変わっていたので......。一番悔やむとしたら、あそこの数ポイントです」

 流れ......のひと言で済ますには、彼らのプレーの次元はあまりに高く、交わされる駆け引きと精神戦は複雑だ。だが、一連の攻防を機に、「活力がみなぎり、一度そうなると、あらゆることが容易になる」と感じたナダルの動きは軽快さを増し、サーブの確率も第2セットでは90%まで上昇。対して錦織のそれは第1セットの60%から、第2セットでは41%まで落ちている。

 金曜の正午スタートの試合が始まったときは、まだ7割ほどだった客の入りも、第1セット中盤から終盤にかけてほぼ満席となった。観客たちは、一度は劣勢に立たされ哀愁ただよう元チャンピオンを、強烈に後押しした。

 観客の声援に加え、もうひとつナダルを蘇らせたものがあるとすれば、それは錦織のプレーそのものではなかったろうか? 第2セットでは30度に迫る炎天下のなか、両者はともにベースラインから激しく声を上げて打ち合った。

 錦織の躍動感に満ちた攻撃がナダルを目覚めさせ、ナダルの熱が錦織をも熱くさせる。第2セットは、勢いに乗るナダルが先にブレークするが、錦織も第7ゲームでブレークバックし、反撃の兆しをただよわせた。しかし、続くゲームで錦織はサーブに苦しみ、「セカンドサーブを叩いて、攻撃していこう」と心に決めたナダルに逆襲を許した。

 試合開始から、1時間33分......。豪快にウイナーを叩き込み、最後に勝利を掴み取ったナダルは、オンコートインタビューで開口一番、「ゲームカウント1−3の15−40をしのげたのがカギだった。間違いなく、観客が僕を後押ししてくれた」とファンに謝意を述べる。一方の敗者はうつむき、コートに背を向けるが、観客の声には左手を軽く振って応じた。

 序盤で流れを掴みながらの敗戦を、錦織は大きく悔いているのか、あるいは、ある程度の納得の敗戦だったのか......。それは、試合後の彼の表情から読み取ることは難しかった。

 だが、2週間前のデビスカップで日本のエースの看板を背負い、英国のエース、アンディ・マリーと演じた5時間の大熱戦。そこから休む間もなく、アメリカ西海岸のインディアンウェルズに渡り、これまで4度初戦敗退を喫した苦手のコートでビッグサーバーのジョン・イズナーら難敵を破り、初めて掴み取ったベスト8。そしてナダル戦では、フォアで攻める"彼らしい"テニスに徹し、最初の4ゲームは完全に試合を支配......。これら一連の経験が、収穫だったことは間違いない。

「調子は、まあ悪くないと思います。今日は初めて(この大会で)ちゃんとプレーできているように感じられたので、調子は上がってきている」

 そう今大会を総括し、そして視線は、来週から始まるマイアミ・マスターズへ。

「しっかりと体調を戻すことが先決です。デ杯(デビスカップ)から疲れも溜まっていますし、少し休んでから、またマイアミで上まで行けたらいいですね」

 マイアミは、今季マスターズ優勝をひとつの目標に掲げる錦織が、「相性がいいので、気合いを入れていきたい」と焦点を当てる大会だ。

 3週間ぶりに戻る、フロリダの自宅。錦織圭はしばし身体を休め、ふたたび始まる「頂点への戦い」へと備える――。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki