中国メディアの捜狐はこのほど、近代化における日本と中国の大きな分岐を論ずる記事を発表した。西洋の文化・文明を虚心に学んだ日本と尊大な態度で臨んだ中国の違いを強調。日本では先覚者である福沢諭吉が大いに活躍したのに比べ、中国では魯迅も胡適もきちんと受け入れられなかったと指摘した。(写真撮影:サーチナ編集部)

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 中国メディアの捜狐はこのほど、近代化における日本と中国の大きな分岐を論ずる記事を発表した。西洋の文化・文明を虚心に学んだ日本と尊大な態度で臨んだ中国の違いを強調。日本では先覚者である福沢諭吉が大いに活躍したのに比べ、中国では魯迅も胡適もきちんと受け入れられなかったと指摘した。

 記事は、日本も中国も19世紀までは門戸を閉じていたと指摘。ほぼ同時に世界に目を向けるようになった両国だが、日本はただちに世界に視野を広げ、それまでの歴史を変化させたと紹介。中国については西洋がもたらした傷みと恨みを頭に刻むことになったと指摘した。

 幕末の尊王攘夷の運きを考えれば、日本がただちに西洋の文物を受け入れたわけではないが、記事の主張は、おおむね正しいと評してよいだろう。

 記事は、当時の中国(清朝末期)が、「われこそが天下」との大国心理により、西洋を学ぼうとせず、武器を購入するといった表面的な事物の取り入れにとどまったと指摘。

 一方の日本は、島国として強烈な危機意識を持ち、西洋文化をできる限り取り入れたと説明。海軍は英国に、陸軍はフランス、後にはドイツに、教育は仏米独すべてに、通信は英国に、警察はフランスに、金融は英国に、法律はフランスに、後にドイツにと、ほとんどコピーするように熱心に西洋文化を導入したと指摘。藩が割拠する遅れた封建社会だった日本がほとんど瞬時にして現代的な強国となったと論じた。

 記事は、130年以上前に出現した日本における思想分野の先覚者として福沢諭吉を紹介。福沢の考え方として「自由は多元的な社会にのみ存在する」「中国では至高の地位と最高の権力が合致しているので、人々の思想は偏狭になり心は狭くなる。そして、考えは単純になり妄想的に尊大になる」などと紹介した。

 なお、「至高の地位と最高の権力が合致」とは、福沢が中国の皇帝制度と日本の天皇制度の違いを論じたものだ。

 さらに、福沢は社会改革の順序として「人心」、「政令」、「物質」と説いたと主張。つまり、「教育なども含めた考え方の転換」、「政治など社会の仕組みづくり」、「経済的繁栄」ということだ。

 記事は、福沢が「最初は困難だが、この順序でやれば最後には成功できる。逆の順序でやれば、最初は速いがいずれ行き詰る」と指摘したと紹介。さらに、中国はまさに、複雑とは逆のロジックで変革しようとしたと論じた。

 記事は、中国の近代化時期で、福沢諭吉に匹敵する思想家はいなかったと主張。文学者の魯人と、白話運動の提唱者で北京大学の学長も務めた胡適の業績を合わせれば、福沢諭吉に匹敵するかもしれないと主張。

 ただし、魯迅は生涯で300以上の別名で文章を発表しており、本人が理由を「私を受け入れてくれる人は少ない」と話していたと紹介。胡適も共産党に反対して米国に逃れ、米国で悲惨な境遇に瀕したと、中国では思想の先覚者が受け入れられなかったと批判した。

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◆解説◆
 中国は福沢諭吉の「脱亜論」を持って、日本が帝国主義・侵略主義に向かう思想面での支えとなったと批判する意見が多い。上記記事のように、福沢を高く評価する意見は、それほど多くない。

 胡適はマルクス・レーニン主義に反対し、国共内戦に共産党が勝利すると米国に渡った。ただし1957年には台湾に渡り、外交部(外務省)顧問、中央研究院院長などを務めた。(編集担当:如月隼人)(写真撮影:サーチナ編集部)