ついにドラマ「わたしを離さないで」が最終回を迎えた。
いろいろな考える「種」を与えてくれる作品だったと思う。カズオ・イシグロの原作小説『わたしを離さないで』のファンの方も最後まで興味深く観られたのではないか。少なくとも、あの作品をなぜ映像化したのか、というような疑問は湧かなかったはずである。


最終回ということで、以下に全話を通して思ったことを書きたい。ネタばらしをするつもりはないので、これから録画や公式サイトで視聴される方も読んでいただいて大丈夫です。ただ、絶対に予備知識なしに観たい、という方はご覧になった後でまた覗いてみてください。

嘘つきの心と、心の悲鳴と


保科恭子(原作におけるキャシー・H。綾瀬はるか・演)と土井友彦(原作におけるトミー。三浦春馬・演)が必死にしがみついていた「猶予」の可能性が否定され、友彦は堪えてきた感情をついに爆発させてしまう。自暴自棄になり、恭子を「介護人」から解任したいとまで言い出す。そして、陽光学苑(原作のヘールシャム)から持ち続けていた宝箱や、夢の象徴であったサッカーボールをゴミ袋に入れて捨てようとするのだ。かつて友彦は、酒井美和(原作におけるルース。水川あさみ・演)が同じような行動に出たとき、こっそり宝箱の中身を拾って戻してやったことがあった。その友彦が、過去の記憶につながるものをすべて捨て去ろうとするほどに、夢を否定された絶望は深かった。

前回のレビューで、原作の特徴を虚偽意識だと書いた。キャシー・Hの語りの表面に、それは決して出てこない。あるいは無自覚なものとして、語り手は嘘をついているのである。自分が夢を見たり、希望を持ったりしたこと自体を語り手であるキャシー・Hは認めない。希望を抱いたという記憶は、絶望をより深いものにするからだ。ゆえに語りは平板なものになり、感情の起伏は抑えられ、時には笑いで覆われることになる。そうした形で平静を装わなければ、心を保てないことが人にはある。原作『わたしを離さないで』はそうした心理の複雑さを踏まえて書かれた小説である。

この重層的な感情の描き方は映像向きではない。それゆえドラマでは、別の戦略がとられた。自分が置かれた立場から眼を背けるために虚偽の感情表現をする、という登場人物たちの行動は基本的に同じである。ただしドラマでは、自分を守るためにまとっていた感情の鎧が崩壊する瞬間を重視した。第7話から8話にかけて、狡猾な嫌われ者の顔を捨てて子供のように無邪気になった美和の、特に恭子に向けられた笑み、第9話における友彦の激しい怒りは、彼らがそれぞれ自分に戻ったためのものである。最終回のそれは、恭子の涙だった。第1話で登場したときの恭子は、完全に無表情だった。ルーティンワークとして介護をこなし、提供者たちを見送る。その淡々とした態度から一転し、最終回では友彦に対する執着や、自分を置いて去っていった者たちへの哀惜の念を露わにしたのである。
映像という表現形式は、隠蔽された内面を描くことにはあまり適していない。その代わりに制作者は、打ちのめされた者が見せる純粋な感情の吐露を視聴者に見せることを選択したのだった。水川、三浦、綾瀬の主役を演じた俳優たちは、その期待に十分に応えた。

陽光学苑という願い


すでにご覧になっている方には説明の必要もないことだが、このドラマは強者による弱者からの搾取という主題を、かなり尖鋭的な態度で作品化している。倫理的な議論の対象になっている問題や、現在の日本が余裕、優しさのない、非人間的な方向へと進んでいるように見えることなどが想起されるような形で毎回の筋立ては作られていた(特に第6話)。最終回もまた、神川恵美子(原作のエミリ先生。麻生祐未・演)が陽光学苑設立に賭けた思いについての言及が再び行われ、望ましくない方向に社会が向かうことを食い止めたいという思いが前面に押し出された形となった。
その反面で、ここ数回で視聴者の関心事となっていた、陽光学苑の理念は果たして正しいものだったのか、という疑問は曖昧にぼかされて終わったように思う。いや、もともと容易に正解は得られない問題を俎上にしたからであり、明解に割り切ること自体が無理だったのだろう。それは正しいのか、社会はどちらに向かうべきか、というような大きな問いのみにこだわるのは止めておこう。それはドラマではなく実人生の中で、視聴者それぞれが答えを出すべき問題なのだ。

むしろ大事なのは、大きな問いではなくて小さな問い、つまり登場人物たち一人ひとりに突きつけられた等身大の問題の方である。ドラマの初期、堀江龍子先生(原作のルーシー先生。伊藤歩・演)から友彦に告げられる形で、その問いは呈示された。すなわち「生まれてきてよかったと思える何かを見つけることはできるか」という極私的な問題だ。その問いの主語は友彦であり恭子であるのだが、もちろん視聴者それぞれにも向けられている。最終回に相当する原作の第23章にこの問いは出てこない。完全にドラマのオリジナルである。

原作の23章は、過去を振り返るのを止めてなすべきことをし、行くべきところへ行こうとするキャシー・Hの態度が描かれて終わる。そうすることで「ヘールシャムはわたしの頭の中に安全にとどまり、誰にも奪われることは」なくなるのだ。そうした「わたし」の物語として完結したからこそ、原作は状況の如何によらず読むことができる、普遍性を獲得したともいえる。

立派な人間の子供になりたい


このレビューの第3回で私は、『わたしを離さないで』という物語から「イタリアの作家が書いた、ファンタジー」を連想すると書いた。それは、カルロ・コッローディ『ピノッキオの冒険』のことだったのである。
児童小説の古典として、ご存じの方は多いはずだ。心を持った人形のピノッキオは、本当に人間になりたいと願って旅に出たため、さまざまな危難に遭う。それらを乗り越えた末に彼は、望んだとおり本当に人間の子供になるのである。

この原稿を書くにあたってコッローディの『ピノッキオの冒険』を再読してみた。言うまでもないが、『わたしを離さないで』とはだいぶ違う小説だ。ピノッキオは、言葉を話す薪ざっぽうから作られた人形である。つまり、木の人形ではあるが、彼にはもともと命が宿っていたのだ。生命のありようそのものが曖昧な「提供者」とは、そこが決定的に違っている。コッローディがこの小説を書いた時代(1883年)は、イタリア半島が1つの国家として成立してからまだ20年しか経っておらず、社会は貧富の差が激しく、混乱していた。その中で、搾取される側に立つ者(ピノッキオ)がいかに状況に翻弄され、残酷な扱いを受けるかということを寓話の形でコッローディは書いたのだ。『ピノッキオ』と『わたしを離さないで』の成立基盤には大きな違いがあり、単純に比較することはできない。

ただ、両者を見比べて思うのは「自分とあの人たちとはどう違うのか」「なぜ自分はあの人たちではないのか」という焦げつく熱い思いは、やはり共通しているのではないかということである。ことにドラマ版にはそれを強く感じる。さらに言えば、「あの人たち」ではなく「この生き方」をするように生まれてきたのに、自分には「心」があるという悲劇だ。ドラマの中で耳に焼き付いて離れなかった、第6話の真実(まなみ)の叫びは、そのことを端的に言い表したものだった。心がなければどんな苦しみもなかったのに、なぜ心を持って生まれてしまったのか。ドラマ後半の陽光学苑の理念を巡る議論も、このことが焦点になった。

ここではすべてを挙げている余裕がないのだが、自我があるがゆえの悲劇を描いた作品を放送期間中はいくつも思い出していた。たとえば石ノ森章太郎『人造人間キカイダー』、映画「クレヨンしんちゃん ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」などもそうだ。完全なネタばらしになるので作品名はおろか作者名すら書けないのだが、私が偏愛する小説の中にも符合するものがある。心からの叫びが、そうした作品からは聞こえてくるのだ。

わたしを離さないで


総括するならば、原作とドラマの違いを最も的確に象徴していたのは、「わたしを離さないで Never Let Me Go」という題名そのものであった。
原作のこの題名は、キャシー・Hが手にするカセットテープ(ドラマではCD)でジュディ・ブリッジウォーターという架空の歌手が唄っているという設定の曲からとられている。"Baby baby, never let me go, never let me go……"という歌詞から子供時代のキャシー・Hは意味を誤解し、親しい相手に対して用いられる呼称ではなく、Babyとは赤ちゃんのことだと思い込む。だから音楽室でこの曲をかけたとき、枕を抱いて子供をあやすように踊っていたのだ。この出来事が後で、生殖能力を持たない「提供者」の哀しさを表現するものとして使われるのだが、ドラマ版ではなかなか使われず、第9回でやや唐突に恭子が口にするような形で伏線回収された。このへんは言葉の問題もあり、仕方のなかったところだろう。

それはさておき、実は原作では、登場人物たちが「わたしを離さないで」と言葉にすることはないのである。ドラマでは第8話と最終回で、それぞれ美和が恭子に、恭子が友彦に言う形で用いられた。感情の直接的な表現が行われないという特徴は、こんなところにも徹底されている。
ただし、厳密に言えば曲名だけではなく、題名につながる台詞が出てくる箇所がある。第23章だ。キャシー・Hに介護人を交替してくれるよう言い出したトミーの台詞である。

「おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついてる。必死でしがみついてるんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後には手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ? 残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から──ずっと昔から──愛し合っていただんだから。けど、最後はな……永遠に一緒ってわけにはいかん」(土屋政雄訳)

カズオ・イシグロの原作ファンの中には、このくだりを読んで、ああ、と思われる方もいるかもしれない。『わたしを離さないで』の10年後に発表した長篇『忘れられた巨人』でも、手を離してしまうというモチーフが繰り返されているからだ。同書の主題について改めて問い直す、重要な箇所でもある。おそらくイシグロは、『わたしを離さないで』の後、ずっとこのモチーフを持ち続けていたのだろう。新作の中で再話したくなるほどに、気にかかるものであったのだ。

おわりに


思えば全10話、10週間をドラマと原作の『わたしを離さないで』と共に過ごしてきた。その間に幾度となく本を開いたので、10週間をかけてゆっくりと原作を再読していたことになる。ドラマから、原作小説をより深く楽しむための時間をもらったようなものだ。そうした形の読書の仕方もあるということに気づかせてもらった日々でもあった。そのことだけでも得がたい体験だった。ドラマ「わたしを離さないで」に感謝する。願わくば、カズオ・イシグロの原作が1人でも多くの読者に届きますように。
(杉江松恋)