「ベースラインの後ろが、かなり狭いな......」

「スタジアム2」に足を踏み入れた瞬間、錦織圭はそんなことを思っていた。

 アメリカ・カリフォルニア州インディアンウェルズで開催中のマスターズ大会「BNPパリバオープン」。錦織とアメリカ人ナンバー1のジョン・イズナーで競われる4回戦の舞台には、「スタジアム2」が用意された。そこは、収容人数8000人を誇るアリーナではあるが、センターコートに比べるとベースラインとフェンスの間、そしてサイドラインから客席までの距離が、かなり狭い。

 そのことは、この日の錦織にとって、とても重要な意味を持った。

 対戦相手のイズナーは、身長208センチの超大型選手。最大の武器は、2階から打ち下ろすかのような角度のあるサービスで、そのスピードはツアー記録となる時速157マイル(約252キロ)を2週間前に叩き出したばかりである。しかも、イズナーは超高速サーブに加え、バウンドした後に2メートル以上跳ねるスピンサーブも携えている。昨年初めてイズナーと対戦し、その脅威を目の当たりにした錦織は、「あんなに跳ねられては物理的に届かないので、返すのは不可能」とうなだれたほどであった。

 通算3回目となる今大会での顔合わせにおいては、さらに錦織に不利な条件が重なった。岩砂漠の中央に人工的に作られた街「インディアンウェルズ」の気候やコートは独特で、透明度の高い乾いた空気はボールのスピードを速めさせる。ところが、ひとたびバウンドすると、ザラついたコートにボールは食い込み、急激に高く跳ねるのである。このような条件は、長身でサーブを得意とする選手に有利に働く。

「これ以上の場所は望むべくもない。僕にとっては、パーフェクトなコート」

 錦織との試合を控えたビッグサーバーは、長身にはやや不釣り合いな童顔をほころばせ、自信たっぷりにそう語った。

 対して錦織は、このインディアンウェルズのコートを、他のどこよりも苦手とする。跳ねる上に「飛び過ぎる」ボールの制御に苦しみ、過去7回の出場のうち、初戦敗退は実に4回。最高成績が昨年の4回戦という戦績が、相性の悪さと苦手意識を如実に浮かび上がらせる。「このコートは、パワープレーヤーのほうが有利」との思いは、究極のパワープレーヤーであるイズナーと戦う上で、精神的な負荷にもなったはずだ。

 果たして試合立ち上がりは、不安要素のことごとくが、コート上で噴出する。

 当初の錦織の"イズナー対策"は、リターンポジションを可能な限り下げ、相手のサーブが跳ねて落ちてきたところを叩くことであった。だが、「スタジアム2」ではフェンスに背がこするほど下がっても、相手のスピンサーブは頭より高い位置にまで跳ねてくる。

「あと2メートルくらいは、下がりたいのに......」

 リターンで抱えた歯がゆさは、すべてのプレーに影響を及ぼした。いつもなら、低い弾道で相手コートに刺さるバックのストロークはラインを越え、美しい弧を描くはずのフォアの強打はネットを叩く。コースの読みが「90%くらい外れ」、サーブの攻略法も見つからないままベンチに戻った錦織は、ラケットを乱暴に地面に置くと、うな垂れた頭を左右に振った。第1セットは、わずか23分で1−6のスコア。

「メンタル的には、最悪でした」

 のちに錦織は、このときの心境を素直に告白した。

「落とし方も悪かったし、相手が良かったというより、自分のミスがほとんどだった」なか、第2セットに挑む錦織が何より意識したのは、「ミスを修正する」ことである。そこで、攻めたい気持ちをグッと抑え、スピンをかけたフォアを多く打ち、まずはボールを相手コートに返すことを心がけた。

 錦織がもっとも得意とする、早いタイミングで攻めるテニスではない。だが、平面のみならず、高さも巧みに用いる錦織の攻めは、徐々にイズナーのミスを誘っていった。そのようなプレーのヒントを錦織は、実は2週間前のデビスカップ――アンディ・マリー戦で掴みかけていたという。ペースを落とした打球でラリー戦を制御する術(すべ)を、彼は苦手とするインディアンウェルズのコートで、自分のモノにしつつあった。

 一方、リターンに関しては下がらず、身体をボールにぶつけるように踏み込み、跳ね際を叩くことで次第に相手にプレッシャーを掛けていく。互いに1本も相手にブレークチャンスを与えぬままもつれこんだタイブレークでは、身体ごとボールにぶつかるように飛びつく必死のリターンで、相手のミスを誘うことにも成功。序盤で得たこのリードを守り切った錦織がタイブレークを制し、第2セットを奪い返した。

 これで流れは錦織にあるかと思われた、第3セット。だが、イズナーのサーブの威力は依然衰えず、対する錦織のフォアも安定感を増していく。互いにブレークチャンスも訪れないまま、続いていく並走状態。その均衡が突如揺らぎかけたのが、ゲームカウント5−6での錦織のサービスゲーム。ドロップショットのミスなどもあり、30−40で相手に許したマッチポイント......。

 この絶体絶命の場面で錦織を律したのは、「ここまでうまくいっていたのに、ドロップショットや簡単なミスで負けてしまうのはすごく嫌だ」という究極の負けず嫌い精神と、「焦らず、しっかりスピンをかけてポイントを組み立てよう」と自身に言い聞かせた冷静さ。我慢の打ち合いのなかから、一瞬の機を見て叩き込んだフォアのクロスでマッチポイントを逃れ、勝敗の行方は、ふたたびタイブレークにゆだねられた。

 両者の勝利への執念が激しくせめぎ合い、息詰まる一進一退の攻防が展開されるなか、相手のサーブながらようやく到ったマッチポイント――。

 試合開始から2時間10分。ここまで「リターンに関しては策が尽きて、お手上げ状態」であったにも関わらず、我慢に我慢を重ねてきた錦織に、ついに勝利の女神が微笑みかける。

「マッチポイントを握られたこの場面では、一番得意とするセンターにサーブを打ってくるはず」

 相手の心理を見透かした錦織の読みがピタリとハマり、相手の足もと深くに刺さったリターン。2本のラリー交換の後、ネットにかかるイズナーのショット......。その瞬間、今まで抑えこんだ激情を解き放つかのように、錦織は握りこぶしを激しく天に突き上げた。

「しっくりこない」と苦手意識を抱いていたこの大会で、ビッグサーバーとの接戦を制した事実は、単なる"ベスト8到達"以上の意味を持つ。

「このコートでは我慢が必要だ」と自分に言い聞かせ、攻めたい本能を制御して掴んだ勝利。そして、デビスカップのマリー戦で手触りを得た、「ゆっくり気味の打ち合い」で相手のミスを誘発するプレー。それら確かな成長の証(あかし)を掲げた拳に握りしめ、錦織圭は準々決勝のラファエル・ナダル戦へと歩みを進める。

内田暁●取材・文 text by Uchida Akatsuki