「わたしを離さないで」の世界にも桐野夏生が存在することを確認した。


図書室のミステリー小説棚が映ったのだが、そこにあったのが桐野『バラカ』、長岡弘樹『教場2』、辻村深月『きのうの影踏み』、薬丸岳『Aではない君と』などの諸作だった。あの世界にもミステリーってあるのね、と思った次第である。

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』を原作とするドラマには大きな変化があった。すでに酒井美和(原作のルース。水川あさみ・演)は「提供」の使命を終え、後に「心から愛し合っているカップルには猶予が与えられる」という噂にすがる2人、保科恭子(原作のキャシー・H。綾瀬はるか・演)と土井友彦(原作のトミー。三浦春馬・演)だけが残されたのである。そして第9話では彼らに、その「猶予」についての真実がつきつけられた。

夢の果てにあったもの


これまで先延ばしにしてきた陽光学苑(原作におけるヘールシャム)設立の謎が、ついに明かされた回だった。特に驚かされたのは恵美子先生(原作におけるエミリ先生。麻生祐未・演)が自身の出自について告白した内容で、これはドラマの完全なオリジナルである。
それ以外の台詞はほぼ原作に忠実だった。快適な暮らしを求める人々は決して不快な存在を視野に入れない、自分と同じ魂を持った人間とは認めようとはしない、という現実認識は、第6話で真実(まなみ)が絶望の中で見せつけられた真実(しんじつ)を裏付けるものだろう。真実は死を賭して周囲の人々を呼び集め、その事実に目を向けさせようとしたのだが、あえなく挫折した。また、美和や友彦たちが縋ってきたものも、その厳然たる事実を希望の力で変えられるのではないか(正確に言えば、変えられないかもしれないが、憐れみをかけてもらえるのではないか)という淡い夢だった。恵美子先生の告白は、そうしたものに、現実の側からの苦い回答をつきつけたことになる。

ドラマ「わたしを離さないで」の巧い点は、救いと絶望とを交互に繰り出して視聴者の感情を操ることであり、1話の中の展開でそれをやる場合もあれば、今回のように週をまたいだ大きな形で起伏が訪れることもある。前回、死を前に恐怖する美和に恭子がかけた言葉は、空疎なものに見えていた陽光学苑の教えが、実は一抹の救いをもたらすものではないか、と視聴者に感じさせるものだった。9話では、それがふたたび裏返されたのである。帰途についた車中で友彦が漏らした一言にすべてが集約されていたように思う。

「結局弱気聞かされただけだよな」

前回までの水川あさみがそうだったように、今回の演技で注目すべきは三浦春馬だった。三浦演じる友彦は、子供のころのように感情を爆発させたりせず、顔にはいつも穏やかな笑みをたたえていた。夢を見ることの大事さを恭子に説き、いつも前向きに生きて自分を律しようとしていた。その彼が仮面をかなぐり捨て、真の感情を曝け出したのが第9話の結末だったのである。夢の果てにあったものは、かつて期待と共に訪れたのぞみヶ崎が単なるゴミの溜まり場だったように、期待はずれの代物だった。

「社会派」とレッテルを貼るのは簡単だが


今回、恵美子先生の台詞で、ドラマ開始以来始めて「○○○○(あえて伏せ字)」という言葉が出てきた。その言葉を今まで使わずにきた理由は、私にはわからない。恵美子先生の告白の衝撃度を高めるためだったのか、その言葉が出てくることでジャンルが固定されてしまうことを嫌ったのか。
本作は特定のテーマについて触れているように見える箇所でも、その背景には現在の世情や、普遍的な感情、人間関係のありようなどが透けて覗くように配慮された作品だった。一面的な受け止められ方がされなかったという意味では、ここまでその言葉を封印したのはいい判断だったように思う。現実に存在する社会問題を扱い、今の日本をそのままなぞるような風潮を背景として扱ってはいるが、それに縛られない普遍性を持つことをこの作品は目指していると思われるからだ。あえてイギリスという異国の小説を原作に採用した狙いも、実はそのへんにあるのではないか。語りたいものを対象化すること、あえて距離をとって見ることの重要性を、本作で改めて認識させられた。

キャシー・Hという語り手について


原作『わたしを離さないで』は、一方向に感情を煽ったり、表面だけをなぞって内容を決め付けたりすることになじまない小説だ。あえてつきはなした形で記述が行われているということはこのレビューの初期にも書いた。もう一度確認するならば、原作の記述の特徴はキャシー・Hによる「すべてが終わったあとの回想録」として書かれている点であり、この中に登場するキャシー・Hはすべて、彼女自身の現在の視点を経由した形で記述されているのである。したがって、その瞬間瞬間に励起する感情は、すべて生ではなく、現在の視点によって浄化(もしくは矯正)されたものなのだ。
現在から振り返ったとき、過去はどういう風に見えるだろうか。

すべてはあるべきところに流れつく(つまりロストコーナー=のぞみヶ崎だ)、あるいは、終わりに近づくためにすべては動いていく。

原作『わたしを離さないで』に漂うこの感覚は、現在進行形で物事が動いていく映像作品では表現するのが困難なものだろう。今回ドラマ化された原作の章(20〜22)に、こういう箇所がある。少し長くなるが、印象的な部分なので引用したい。「猶予」を求めるために絵を描き続けるトミーを見ているうちに、キャシー・Hの心に湧き上がってきた感情についての記述だ。それが訪問の「前」であることに注意されたい。

──[……]トミーの絵には昔の若々しさがありませんでした。目の前の蛙(注:絵)は、コテージで見たあの動物たちと確かによく似ています。でも、はっきりと何かが失せていました。苦労の跡が歴然と残っていました。たとえて言えば、昔の絵を必死でコピーしたという感じでしょうか。あの思いが、いくら抑えようとしても湧いてきたのはそのせいでしょう。何をやろうと、もう手後れではないのか。それが可能な瞬間もあったのに、わたしたちはそれを捕まえそこねたのではないか。わたしたちがいま考え、計画していることは、どこか滑稽で、あえて言えば不謹慎ではないのか……。

この感情もまた、現在からの編集を受けたものだから、本心ではないのかもしれない。語り手であるキャシー・Hは、もしかするとすべてが終わった後だからこそ、こうした形で過去を振り返り、当時の自分の感情を塗り変えているのかもしれない。そうした形で過去に希望を抱いたことがあったという事実を隠蔽し、あたかも絶望しか自分にはなかったかのように振る舞うこと、絶望の演技によって希望に裏切られた自分をなかったように見せかけること、そうした虚偽意識が描かれるのが『わたしを離さないで』という小説の特徴なのである。文章のはしばしに覗いているユーモアも、そうした意識の反映だと思って読み返すと、違った感興が湧き上がってくる。そういう形の感情表現も小説には可能なのだ。

ドラマは、今夜ついに最終回である。物語の謎については前回で決着がついたかに見えた。しかし謎解きが終わっても物語は終わらない。ミステリーで犯人が捕まっても、それ以外の登場人物の人生は続いていくのと同じことである。このドラマに関わった人々の行く末を見極めるために私は最終回を見届けたいと思う。
(杉江松恋)