日本サッカー史上最大の悲劇とされる94年ワールドカップ予選。空前のサッカーブームに沸く日本人が「ワールドカップ出場は簡単ではない」ということを思い知った瞬間だった。 (C) Getty Images

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 3月7日、なでしこジャパンのリオデジャネイロ・オリンピック予選敗退が決まった。4年前の銀メダリストが、アジアで力尽きたのである。
 
 ここでは、男女両方の各年代主要大会において、日本代表が最後にアジア予選敗退を喫した瞬間を振り返っていく。
 
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◆ワールドカップ
1994年アメリカ大会予選
 
 カタール・ドーハでのアジア最終予選、初戦でサウジアラビアにスコアレスドロー、イランには1-2で敗れ、いきなり窮地に立たされた日本だったが、そこから北朝鮮には3-0、宿敵・韓国にはカズのゴールで9年ぶりに勝利(1-0)を挙げ、イラクとの最終戦を迎えた。
 
 自力で本大会行きを決めるために勝利が求められる一戦、日本は開始5分でカズが先制点を挙げるも、押され気味の展開のなかで54分に追いつかれる。それでも気力を振り絞って69分にラモス瑠偉のスルーパスを中山雅史が決め、日本はアメリカ行きに大きく近づいた。
 
 そして時計の針が90分を過ぎた時、イラクのショートコーナーからオムラムがヘディングシュートを放ち、ボールはゆっくりとゴールラインを越えていった。土壇場で引き分けに終わった結果、アジアからのアメリカ行きチケット2枚は、サウジと韓国に転がり込んだ。
 
 サウジとは勝点1差(得失点差では日本は1多かった)、同勝点の韓国との得失点差はわずか2。最後の最後に訪れたこの衝撃の結末は、日本サッカー史上最大の悲劇といわれたが、一方でこの競技のドラマ性を際立たせ、さらに人々の関心を集める結果にもなった。
 
 こうして初のワールドカップ出場を逃した日本だが、4年後のフランス大会では紆余曲折を経て、ついに悲願成就。産みの苦しみを乗り越えてからは、現在に至るまで5大会連続で世界最高の舞台に上がり続けている。
 
◆アジアカップ
1976年イラン大会予選
※80、84年は不参加
 
 今では、日本がこの大会の予選で敗退することはまず考えられないだろうが、88年大会まで日本サッカー協会は、オリンピックと同年に開催されるアジアカップを重視しておらず、参加辞退もしくは、B代表以下を送り込んだりしていた。
 
 56年から始まった4年に一度のこの大会で、日本は64年までの3大会で不参加。68年大会で初めて予選に出場するも、B代表のチームは3勝1分けの好成績ながら得失点差で台湾に出場権を奪われた。
 
 そして再び不参加となった72年大会を経て、76年は初めてA代表で臨んだが、香港(0-0→3PK4)、北朝鮮(0-1)、シンガポール(2-1)、中国(1-2)相手に勝ち抜くことはできなかった。
 
 その後、日本は2大会で不参加。88年にようやく予選を突破するも、学生主体のチームは1勝も挙げられずに(1分け3敗の最下位)グループリーグ敗退を喫した。
 
 しかし、広島での開催となった92年、日本は初の外国人監督ハンス・オフトに率いられたプロチームを投入。苦しみながらも初優勝を遂げると、その後の6大会で3度のアジア制覇を果たし、最高優勝回数を誇っている。
◆オリンピック
1992年バルセロナ大会予選
 
 Jリーグ以前の最後の五輪予選。日本代表の歴史のなかで唯一赤いユニホームを採用した時代で、後にJリーグやA代表で活躍することになる選手を多く擁していたが、戦前の予想は厳しいもので、実際にそれは的中することとなった。
 
 1次予選を突破した日本がマレーシア・クアラルンプールで対峙したのは、韓国、中国、カタール、クウェート、バーレーンという、いずれも強力な相手。上位3チームにバルセロナ行きのチケットが与えられる決戦は、総当たり方式で行なわれた。