また、ロダンもそんな花子に魅了されていたのでしょう、花子を前にすると制作意欲が燃え、58体の彫刻を残しているのです。

彼女は森鴎外(1862年〜1922年)の短編小説「花子」のモデルであることも知られていますね。

明治の初期、こうして貞奴と花子の二人は、時を同じくしてジャポニズムのパリに日本文化を背負って、女優として、また、踊り子として挑みました。

無謀とも言える挑みでしたが、結果は二人の持つ才能と着物という民族衣装の素晴らしさも加味され、彼女たちの狙い以上の結果を出すという、素晴らしいものでした。

それは舞台鑑賞後、画家ピカソが貞奴の舞台姿を描いたのもその証でしょう。巨匠ロダンが花子の面像68体をも彫刻するということも彼女がいかに魅力ある女性だったのかを知ることができます。

社交界に生きたマダム貞奴の心意気と踊り子花子がロダンだけではなく、ヨーロッパの人々を魅了した妖艶さががジャポニズムの人気になお一層の力を添えたのではと思います。

川上貞奴(1871年〜1946年)と花子(1868年〜1945年)のお二人は、第二次世界大戦後、故郷日本で77歳と75歳という長寿を全うして生涯を終えました。

《註:文中の歴史や年代などは各街の観光局サイト、取材時に入手した資料、そして、ウィキペディアなどを参考にさせて頂いています》

(トラベルライター、作家 市川 昭子)

※筆者は「Gadgetwear」のコラムニストです。