「わたしを離さないで」第7話でびっくりしたのは、保科恭子を演じる綾瀬はるかの胸が本人を識別する記号として扱われていたことだ。
「おっぱいでかい!」
で三浦春馬演じる友彦は恭子を連想したわけで、どれだけおっぱいばかり見ていたんだと思ってしまった。まあ、そばにいたら見ちゃうだろうけど。


美和の頑なさの下にあったもの


あだしごとはさておき。
ついに最終章「希望」に入り、物語は現在の時間へ完全に戻ってきた。すでに酒井美和(水川あさみ・演)と土井友彦の「提供」も始まっており、恭子は美和の介護人として働いている。前回のこの原稿で、美和の厭な性格がドラマを回すために不可欠な要素として機能していることについて触れたが、その彼女の真意もついに明かされ、恭子との関係も明らかに進展した。いくつもある未解決事項のうち、1つは確かに前進したようだ。

美和の大規模な提供が決まり、彼女はつぶれたはずの陽光学苑を訪れたいと言い出した。それも美和、恭子、友彦の3人で。介護人として恭子はその実現に乗り出し、離れた施設で暮らす友彦にも連絡を取る。そして3人による小旅行が実現したのである。今夜放送される第8話では、その陽光学苑跡地で衝撃的な出来事が起きることが予告されている。恭子が、自身の幼少期に瓜二つの少女(鈴木梨央・演)に出会うのだ。ドラマオリジナルの展開であり、謎解きがいよいよ始まろうとしている。

友彦の「絵」は何を示すのか


カズオ・イシグロの原作『わたしを離さないで』も3部構成になっている。〈陽光学苑編〉〈コテージ編〉〈希望編〉となるドラマ版とも切れ目はほぼ一緒だ。原作には各部ごとの題名が付されていないので最終編に〈希望〉とつけたのは制作者の思いを反映したものということになる。
ドラマ第2部は、友彦と生きていく覚悟を決めた恭子が美和に希望を打ち砕かれ、何もかもを振り捨ててブラウン・コテージを出ていくことで幕を下ろした。原作のこの箇所は、そこまで明確に人間関係を示すものではない。ルース(ドラマの美和)の心無い一言でキャシー(恭子)とトミー(友彦)、そしておそらくはルース自身もが大切にしていたであろう思いが踏みにじられてしまう。そのことによって起きるはずのことを直視したくないあまりに、キャシーは背を向けて立ち去ってしまうのだ。
そのきっかけは、トミーが絵を描きだしたことだ(ここはドラマと同じ)。ノーフォーク(ドラマののぞみヶ崎)行きの最中でトミーは「提供者」に与えられる「猶予」について触れ、それを手に入れる鍵は「絵」ではないかと言い出した。それは「作った人の内部をさらけ出す」「作った人の魂を見せる」ものだからだ。トミーはかつて絵を馬鹿にして描かなかったことを反省し、熱心に取り組み出す。そして独特な細密画のような筆致を編み出すのだ。キャシーはそこに描かれた奇妙な動物たちに心を惹かれる。しかしルースはそれを一瞥し「とんだお笑い種」と嘲笑ったのである。

思い出はかけらの中に


ヘールシャム(ドラマの陽光学苑)時代に撒かれた種、敷かれた伏線を1つ1つ回収するような形で原作の後半部は展開していく。トミーの絵の問題もそうだが、キャシーがかつて見たもの、通り過ぎてきた風景といった断片的な記憶が、ストーリーを前に押すための燃料となり続けるのだ。その意味で第3部は追憶の小説という性格が特に強くなっている。ドラマでは今夜の第8話で語られる箇所に、「オフィスのポスター」というエピソードが原作では出てくる。さりげない形で過去の事物を登場させる技巧で、ここを読んだときははっと息を呑んだ。
これは私の勝手な読みかもしれないが、限られた体験、限られた期間の生命しか許されていない「提供者」のキャシーだからこそ、目の前を通り過ぎていく物事のひとつひとつが愛おしく感じられ、心に強く記銘されるのではないだろうか。必死に生きるということが、そうした形で表現されているように思えるのだ。
これはイメージを文字の形で読者に届け、それを脳内で増幅させるという小説ならではの表現だろう。ドラマと小説の美点がはっきり異なる箇所でもあるので、ぜひ実際に原作にも当たってみていただきたい。

陽光学苑ふたたび


ドラマでは陽光学苑の跡地を訪れるために3人は再会する。ここは原作では、湿地で座礁している船を見に行くという名目になっている。提供が始まって気分がくさくさしているルースが船を見たいと言い出し、ある理由から閉鎖されたヘールシャムを訪問しなければいけない、自分には残された時間がない、と思い始めた(ここでも断片的な記憶が効果的に使われている)キャシーがそれに同調することで小旅行が実現する。実際に船を観る場面の文章を引用しよう。

──実際には、空き地に足を踏み入れたわけではなく、いま通ってきたまばらな森がそこで終わったというのが正しいかもしれません。前方は見渡すかぎり湿地です。(中略)さほど遠くない昔、この森はずっと先までつづいていたに違いありません。そこここで、地面から木の幹が突き出していましたから。どれも立ち枯れて、ほとんどは地表数メートルのところで折れています。その立ち枯れた木々の向こう約六十ヤードのところに、船がありました。沼地に腹をこすりつけたまま、弱々しい日の光に照らされていました。

この風景を見たトミーが呟くのである。「ヘールシャムも、いまこんなふうなのかな。どう思う?」と。
おそらくはその連想から出発して、陽光学苑再訪というプランが出来上がったのではないか。ドラマ「わたしを離さないで」はよく原作を研究している作品である。特にこうした些細な記述をストーリーの中に再編していく手際がよく、そこが原作を改変しつつも寄り添った内容になっているとの印象を与える理由である。
原作におけるヘールシャムは幼少期の象徴で、二度とそこには帰れない場所として描かれる。穏やかで幸せな時間から切り離されるような形で残酷な世間へと産み落とされたひとびとの物語なのである。それに対してドラマ版は再訪できなかったはずの母なる場所へと彼らを送り届ける。そこで何があったかを、視聴者に直視させようとするのだ。陽光学苑へ彼らが向かう場面は、移動する車を上空からとらえた俯瞰で描かれた。このカットは第1話、陽光学苑が初めて視聴者の前に姿を表す場面とまったく同じだ。そうした形で帰れないはずの場所への里帰りを予感させたあとに、思いがけない幕切れが訪れた。かつて陽光学苑だった場所は鉄の扉に閉ざされていた。そこには無機質な表札がとりつけられていたのである。

第9話で描かれるであろう「その後」は、そもそも陽光学苑が何であったかという謎解きにもつながるはずだ。それがどのようなものであっても、しっかりと受け止めていきたい。
(杉江松恋)