NHK 大河ドラマ「真田丸」(作:作三谷幸喜/毎週日曜 総合テレビ午後8時 BS プレミアム 午後6時)
2月21日放送 第7回「奪回」 演出:田中正


6回の16.9%から、7回は17.4%と、迷走から奪回。サブタイトルと視聴率を連動させるとは、どこまでエンターテイメントしているのだろう!

調子の良かった7回は、滝川一益(段田安則)が、北条討伐に向かう隙に、沼田城、岩櫃城の奪還を狙う(冒頭のテロップより)真田昌幸(草刈正雄)の大勝負の中で、奮闘するも失敗続きの源次郎・信繁(堺雅人)の姿が描かれた。

背景にあるエピソードは、【天正壬午の乱】という、本能寺の変の後、持ち主がいなくなった旧武田領(甲斐、信濃、上野)をめぐる近隣諸大名の争い。この乱に関するドラマが、三谷幸喜の「真田丸」の特異な部分であることを、堺雅人は、以前、インタビュー
でこう語っている。


「歴史劇を描く時、たいていは史実をなぞりますから、俳優も、あらかじめ、勝者は勝者の顔をし、敗者は敗者のような顔をして演技をしてしまいがちです。実際のところは、一寸先は闇で、先のことはわかりません。三谷幸喜さんは、そのわからない“闇”を見つめる作家です。例えば、織田信長が本能寺の変で死んだ後、『天正壬午の乱』という戦いが起ります。でもそれは敗戦処理みたいなもので、たいていの映画やドラマでは1話もかけずに済まされてしまう。でも、三谷さんはそこに3話もかけているんですよ。その戦いが実に面白くて、僕ら俳優も、歴史をわかったふりをせず、その瞬間、瞬間、何が起るかわからないように生き生きと演じていきたいと思わされました」

沼田、岩櫃城を返すと一益に言われ、こんなことなら、嘘をついて急いで城を取り返さなければよかったと後悔する昌幸。
そのせいで、人質になっているとり(草笛光子)が危なくなってしまった。祖母を救いに、小諸城に向かう信繁の、父同様、嘘ばっかりついて、城中で立ち回る小気味よさ、ことごとく裏目に出るきり(長澤まさみ)の不器用さ、とりと木曽義昌(石井愃一)の意外な関係。厠に行きたくてもいけない見張りをしている下級武士の立場、嫁(高畑淳子)と嫁(長野里美)の辛気くさい食事・・・と細かい人間描写がたくさん出てきて楽しい。
3話もかけて三谷が何に挑んでいるかといえば、この時代に生きている様々な人々のアクチュアルな姿だ。余談ではあるが、こういうところも、基本、身分の高い者を中心に描きつつ、門番とか乳母とか召使いとか下々の者のこともしっかり描くシェイクスピア劇を彷彿とさせる。

中でも、滝川の武士と小諸城の武士の間に入り、調子を合わせ、度ツボにはまる信繁が愉快だった。
こんなふうに、「真田丸」では、3人のカットが多い。
7回でも、上記の場面の他に、一益と昌幸の間に信繁のリアクションのカットを何度も挟んでいるし、とりと信繁の間にきりを置き、いちいちリアクションする姿を描いている。AとB、相反する考え方の2人が向き合うカットは、ドラマや映画でよく見るけれど、「真田丸」はその真ん中にもうひとり置き、その真ん中の人物が、A の主張とBの主張の顔色を伺っているように描く。もちろん、少しでも、登場人物に見せ場をつくろうという心配りで、場面も単調にならずに済むが、それだけでない効果にもなっている。
この3人という構図は、この時代の日本の状況とも重なっているのだ。
6回で「信濃は日本国の真ん中ですから」と信繁に言われ、信幸は、東西を結ぶ要の土地だからこそ、上杉も北条も徳川も手に入れようと躍起になるのだと悟る場面があるが、信濃も、AとBの真ん中にいる人物と同じ。この独特の構図によって、「真田丸」は二項対立の物語ではなく、その間に存在するものの物語であることがよくわかる。
尺を長くとって描かれる、一見、無駄にも見える人間たちの描写は、AとBの真ん中にいて蠢いているものたちの象徴でもあろう。
「大事なのは、思うようにいかぬ時、いかに振る舞うか」「望みを捨てなかった者のみに道は開かれる」と言うとり。「面白くなくては人は動かん」と言う昌幸。
ひとつの価値観に縛られず、真ん中にいて、フットワーク軽く動ける者こそが、生き残れるのだと「真田丸」を見て感じている。
戦国の激しい争いの間に起った【天正壬午の乱】も、ふたりの人物の真ん中にいる者や、東西の真ん中にいる信濃と同じだ。で、奇しくも、真ん中の「真」は、真田の「真」でもある。
(木俣冬)